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「カルト」化する教団、宗教の公共性への視点ー聖神中央教会の事件に思うー中編


05月08日(日) 06時00分
 



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金保容疑者の非道を報じる「週刊ポスト」5/6・13号
 宗教社会学者が分析、自身の宗教観を悪魔論に発展させた金牧師。

 前編に続き、以下は櫻井義秀北海道大学大学院教授寄稿の聖神中央教会問題。

 2 宗教的知識の断絶−「悪魔論」と素朴な信仰の間−

 2-1 「悪魔論」にみる世界観

 聖神中央教会が2001年8月15日から17日にかけて、第三回『学生会セミナー』を開催しているが、その中で、「悪魔論」と題する講義をパウロ永田(金)保牧師が行っている。

 「悪魔」という漢語は仏教に由来し、仏道を妨げる悪神の意味である。キリスト教では「敵対者」というヘブライ語由来のサタンの訳語に用いられる。サタンは神に敵対する最高の存在と考えられ、人間を誘惑し、キリストによってしか滅ぼされない。

 サタンの起源については、天上から落ちた星=天使という説があるが、これは聖書の外典・偽典含めたオリエントの神話、中世の魔女狩り時代の伝承、さらにはジョン・ミルトンの『失楽園』等の文学作品に影響されて、多くの人々により構築された天使や悪魔に関わる壮大な俗説(現代のキリスト教神学において中心ではないという意味で)である。

 このサタンが人間や社会に直接働きかけ、神と敵対しているという二元論的世界観はなかなか魅力的な教説とみえて、一回目に取り上げた統一教会をはじめ、正統派から異端視される教団や、正統派と目されながらもファンダメンタルな教派、或いは、日本の新宗教、サブカルチャーではSFやアニメの世界にも影響を与えている。聖神中央教会もその一つであった。

 講義資料「悪魔論NO.4御使い達」によると、神は「神の御国」以外に「天と地を創造されたのは、汚れたものを閉じこめる」ためであったとある。「被造物なる、この堕落した御使い達を神は許しておらず、下界に閉じこめられ、彼等を完全に裁き、取り除くために---御子イエスを、---キリストとしてこの世に送られたのである」

 ところで、堕落していない御使いの役割とは独特なものである。「祈るごとに天使が助けてくれ」、「主の力=御使いたちの働き」によって救われる一方で、「万一、義と善なる者の為に送られた御使いが存在しているにもかかわらず、信ずる者が、悪しき思い、悪しき行い、不信仰をあらわすならば、この御使いは、確実に可変するのである。それ以後、この御使いは悪しきことだけを行い、その人間を滅ぼしてしまうのである」ともされる。

 ところが、「悪魔論−総論」によれば、人類は、「悪魔が今も命の破壊工作を行っている事に気がつかずに、正しく神に対する信仰を見いだす事が出来ずにいる」「悪魔の正体、悪魔の存在、悪魔の働き、悪魔の業を知り、戦いの生活を行うことが主イエスと共に歩む生活である。アーメン」とされる。

 筆者は、このような教義がどの程度正統派のキリスト教伝統のうちにあるものなのか、判断しかねるものであるが、一見して力動的な世界観が読み取れる。つまり、善と悪の根源からエージェントとなる霊的存在が人間に働きかけ、一人の人間において、この世界で善と悪の代理戦争が行われる。「汚れた霊は、人の肉体に自由に出入りし、神経系統を犯し、病をもたらし、悪魔の本質である肉の思いを持たせ、信仰の堕落をもたらすために、ありとあらゆる手段を持ち、働く」のである。

 従って、汚れた霊を統御できる力能を持つ者こそが神の側に立つ者であり、信者を導ける者ということになり、金牧師は、そのような力により病を治し、信者間の問題を裁くという役割を自認していたのではないだろうか。

 この御使いや聖霊、汚れた霊といったスピリチュアルなエージェントを、日本風或いは東アジア風に言い直してみるとどうなるであろうか。日本の民間仏教や新宗教では、悪霊退散の調伏や病気直しの加持祈祷、霊障を切る、邪霊を追い出す・鎮めるといった数々の儀礼を生み出してきた。東アジアの民俗宗教においてもシャーマンや巫者による精霊の操作、死霊の祀り等が発達しており、各種の神霊治療も散見される。朝鮮半島に土着化し、変容も遂げたキリスト教には、民俗的霊魂観や疾病観、災因論を織り込んだ教義や儀礼を開発するものもある。

 金牧師が韓国で学び、自身の宗教観を悪魔論という形で発展させた。この講義案を何度も読み返してみると、われわれになじみ深い民俗的宗教知識が見えてくる。金牧師の信者に対する説得力がここにある。霊の働きを中心にすえた教義や儀礼は、祟り信仰に慣れた日本人には現実味があり、霊に対する畏怖の念が、信者の牧師にすがる態度、逆らうことの困難さを増幅していたと考えられる。

 2-2 従順と隷属との間

 恐怖心だけで人を押さえつけることには限度がある。いずれ離反・反抗される。教団を形成することに成功した創始者には、強烈なカリスマと泥臭い人間味、破壊性と優しさ・包容力といったものを併せ持っていた人物が少なくない。金牧師もそれなりの魅力を持つ人物であったろうことは想像に難くない。

 利害が絡む普通の人間関係であれば、人の良し悪し、二面性はそれなりに理解されよう。しかし、指導するもの−されるものといった非対称的な関係で、しかも人格的な関わりを伴った場合に、指導者は尊敬されるべき人−指導されるものは従順にそれを受け入れるものという役割が固定化されがちである。

 聖神中央教会信者の一人が2005年4月末まで日記をホームページで公開していた。印象的な箇所を引用してみる。パウロ先生こと、金牧師の説教の言葉の厳しさに疑問を覚えた信者が、耐えきれないということで幹部に相談してみた。

 「姉妹、語られるみことばが痛いのは、それがあなたの心に刺さるからですよ。何度も語られるのは、それほど大切で、必要なことだからです」と応えられた。問題の根は自分にあるのかと自問する信者に対して、幹部は、優しく、しかし、毅然として、御言葉が真理であることを確認した上で、聖書の一節を読み聞かせた。

 「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。(ローマ人への手紙13章1-2節)」

 これを聞いた信者は、「じつは最初から、苦手なところだったんだと。そのことを、認めなくちゃいけないと思った。その場で私は、悔い改める決心をした」そして、「心から悔い改め、自分が引きずってきた一切の良くない思い、み言葉に逆らう思いを取り去って下さるように、祈った。その時、私の心から重荷が去って行くのを感じた。もう何も判断しなくて良いのだ。これからは。それはなんて幸いな楽なことなんだろう!」と思った。

 具体的に脈絡を明らかにせずに、言葉尻と結論だけ取り上げて信仰のあり方を云々することは軽々にすべきことではない。しかしながら、文脈の転換が意図的になされた部分は指摘せざるを得ない。この聖書の章句は、世俗の権威(帝国)に対して信仰者はどのような態度を取るべきか、ということをパウロがローマ教会に諭した箇所である。権威と従順という一般論ではなく、国家と宗教という拡大した議論でもなく、当時のローマ帝国とローマ教会との脈絡の中でパウロの言葉の意味が理解されるべき事柄である。しかし、先の場面では、所属教会内部の権威に従順であることが信仰的であるという意味が示唆され、信者が感じていた素朴な疑問は丁寧に取り除かれてしまったのである。しかも、信者は権威に従うこと、自己を委ねることに同意し、自分で思い悩まずに済むことを幸いとする。

 この場面に悪意は存在しない。主観的には双方共に信仰告白そのものであるが、客観的な社会関係・組織の次元では、権力に飲み込まれてしまった瞬間でもある。

 このような文脈の転換は、実のところ、聖神中央教会のみならず、教派・宗派を問わず、多くの宗教団体で散見される。そして、信者はもちろん、幹部も自覚的でない場合が多い。従順であることは宗教者の徳の一つであるが、何事においても従うという隷従とは区別されるべきものである。

 しかし、聖神中央教会においては主管牧師の権威に特別の権威があてがわれ、疑われなかったのである。それは、「人間的思考様式、すなわち、主を知った者がその後、人間的なものの考え方をすることは、主から来るものではなく、サタン的考え・悪魔的考えであることを語っているのである。(悪魔論NO.1サタン、悪魔の正体)」という認識論によっても補強されていた。つまり、自分自身で考え、判断することは悪、宗教的指導者に従うことが善という弁別である。自分がないのであるから、分別ではない。

 2-3 「カルト」化 する教会

 日本のキリスト教では、牧師や神父の説教においても教義学や聖書注解が重んじられるし、神学者や教会従事者が著す書物にも、信仰という飛躍はあるにしても合理的な解釈が可能な宗教体系が記されている。唯一の聖典である聖書は平易な日本語に翻訳され、一般信者が手にとって読むことができる。従って、キリスト教の信者は、聖書の章句の意味を学問的に、或いは標準的な教会の解釈を通してチェックすることが可能である。聖職者にあっても、聖書に全く根拠のない教義や儀礼を創始することは、オーソドックスなキリスト教の場合、殆ど不可能である。このような他の諸宗教ではありえないほど開かれた宗教的環境にあるにもかかわらず、近年、教会の「カルト」化という問題が、キリスト教の関係者から指摘されるようになっている(ウィリアム・ウッド『教会がカルト化するとき』いのちのことば社、2002年。パスカル・ズィヴィー、福沢満雄、志村貢『「信仰」という名の虐待』いのちのことば社2002年。ウィリアム・ウッド『「健全な信仰」と「カルト化した信仰」』いのちのことば社、2005年)。

 ウィリアム・ウッド氏はエホバの証人、パスカル・ズィヴィー氏は統一教会信者を中心に脱会支援のカウンセリングを続けている宗教者である。この二人や教会関係者から見ても、日本の主流派に属する教会(異端視されない、教会関連のネットワークにも所属しているという意味で)のなかで、「虐待」や「カルト」化と言わざるを得ない信仰指導や教会運営が行われているという指摘である。

 これはテレビ番組で放映された聖神中央教会のように、礼拝の最中に信者が踊り、少女達が失神するとかいう場面、或いは、福音系の教会で日常見られる異言(信者が祈祷中に発する意味不明の言葉、聖霊によるともされる)等、日本人の静かな祈りのキリスト教というイメージからみて不思議に思われるものを指しているわけではない。これらは世界中のキリスト教からみれば、ごく普通の礼拝であり、祈りである。そうではなく、聖職者が信者のプライバシー(恋愛や結婚問題、進路選択や家の購入等)や、教会内の人間関係(付き合ってよい人と悪い人を指示)に度を超して介入したり、教会活動の資金拠出や伝道活動を法外な度合いで要求したりするというものである。そして、このような指示に従わないものは不信仰者とされ、個人的に或いは信者達の面前で公然と批判され、悔い改めるよう促されるというのである。

 筆者もこの種の相談を2、3度受けたことがあり、対応策を話し合ったことがある。家族で教会活動をしている場合、批判的な相談者と家族との仲を裂くように聖職者が様々な画策をする(或いはそのように相談者が解釈する)、その人の教会内での評判を貶め、発言に信者が応じないようにされる等、よくここまで気が回ると感心さえする。信徒会が機能していないのではないかとも思われるが、聖職者のクビに鈴をつけるのは容易ではない。

 このような事例はかなりの程度、聖職者個人のパーソナリティーと心得違いの結果であり、キリスト教そのものとは何の関係もないのであるが、それらの権力行為を信仰の名の下に強制する事態を阻止することがなかなかできない。外部からそれが確認される場合でも、教会同士であそこはと名指しされるだけで、単立系教会の場合、或いは、問題を起こしているものがグループの長である場合(聖神中央教会の例)に、そこに乗り込み、忠告する権限(組織的に)を持つものがいない。誰が忠告するのか。信者による内部改革が可能であるような教会であれば、そもそもこのような問題は発生しないとも言える。

 筆者は宗教の論理だけで、つまり、神の働きや人間の信仰だけでこのような問題を解決することはできないと考えている。組織運営をする人間の側の知恵こそ必要なのだ。

 以下、後編に続く。

■櫻井 義秀(さくらい よしひで)氏 1961年4月、山形県上山市生まれの44歳。84年、北海道大学文学部哲学科卒業。87年3月北大大学院文学研究科博士課程中退。北星学園女子短期大学家政学科専任講師、北大文学部講師を経て、2004年から同大大学院教授。専攻は宗教社会学。







関連サイト

シリーズ一括読み
http://www.bnn-s.com/news/series_cd134.html

櫻井義秀氏HP
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/






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