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「カルト」化する教団、宗教の公共性への視点ー聖神中央教会の事件に思うー後編


 
宗教団体が認識すべき公共性とは…。
宗教社会学者を専攻する櫻井義秀北海道大学大学院教授の寄稿、後編。
3 日本的集団主義と宗教団体−宗教団体における公共性の認識−
3-1 リスク社会と集団主義
2004年度の振り込め詐欺の認知件数は4,658件、被害総額約44億3,530万円であり、そのうちいわゆる「オレオレ詐欺」分は約22億8,358万円であった。残りは、架空請求詐欺、融資保証金詐欺である(警察庁調べ)。
昨年、わが家も危うく被害者になるところであった。筆者が学生引率の調査のため車で出かけた際に、自宅電話に「ご主人が北区の交差点で衝突事故を起こし、相手方の妊娠中の女性が破水して緊急入院。ご主人は警察署に留置されて連絡できない。示談をしないと裁判になるかもしれない」と現場から警察官を名乗る男が電話してきた。
交差点の音とサイレンの音まで聞こえたという。応対した家内は、学生のケガを心配して同乗者を確認したところ、ご主人一人というのでまず不審に思い、現場へ行くので場所を教えてほしいというともう現場検証は終わったという。一度交通事故の処理を経験している家内はこれもおかしいと思った。
昨年まで私は携帯電話を所持していなかったため、私に事故の確認することを諦めた家内は、各所に電話をかけて対応を相談した。たまたま、車のディーラーに電話したところ、北海道警察に事故の確認をしてくれて、該当するものがないことが判明した。この間、3時間余り、生きた心地がしなかったという。はじめに疑う様子を見せたので、二度目の振り込めという電話がかかってこなかったのだが、同じ日に市内で800万を振り込んだ主婦がいた。
警察は示談の交渉をしない、電話に弁護士が出てきたとしても示談はすぐやる必要がない。裁判の被告になることが懲戒免職に直結するわけではない。こうしたことを部分的に知っていても、被害者の驚愕・不安を巧みについてくる臨場感あふれる加害者の演技に騙される人が多いのである。他の振り込め詐欺についても、契約なしに支払い責任が発生しないこと(架空請求たるゆえん)、クーリングオフの制度があること等を知らないままに、数万円から数十万円を請求されるままに支払う被害者が少なくない。
本来全く債務義務のない人間が、家族の情愛や世間体のために、混乱状態に陥れられたとはいえ、現場の確認もせず、契約書もないのに請求されるままに金を支払ってしまう。この種の犯罪には資金源に困った暴力団の組織的関与や職のない若者達の関与も報告されているが、どうしてこれほどの被害が発生するのであろうか。
大きな社会背景として、人々の生活圏がコミュニティ・レベルから匿名の人々を含むマス社会のレベルに急速に拡大したことがある。地域社会では不審者の見分けがつく。危ない人間、危ない地域には近づかないであろう。
ところが、電話やインターネットといったパーソナルでありながら、不特定多数の悪意を持った人々にも公開されているコミュニケーションに接続された時に、コミュニティ内の身の処し方、確保されていた安全が意味を失ってしまう。そこで、気心も知れず、得体の知れない相手とどのようにコミュニケーションを確保するのかという技法が重要になるのである。契約を交わすしかない。
「契約」とは、予め約束した範囲と条件で、特定の関係を開始・継続、終了するという決め事である。キリスト教の起源となる古代ユダヤ教が、多数の民族と多数の神々がいる世界で、人と神が排他的取引で「契約」を交わした宗教であったということに注目したい。
他方で、境界が明確に区切られた世界で発展した共同体の宗教や文化では、われわれ意識という共同性の感覚や、慣習や伝承といった不文律が重視される。日本的集団主義と呼ばれるものがこれであり、何も日本に限定される特長ではない。比較的閉ざされたコミュニティでは普遍的に見られる集団的特性である。そこでは、共同体に属し、そこから出て行かない限り、個人のリスク管理は共同体がおってくれるのである。商取引でもお互い様である。
ところが、マス社会では匿名性に紛れて、負担をせずに権利だけを行使するフリーライダーとなったり、利得のためには他者の人権や生活を顧慮しない人々が出現したりする。国際社会であっても資源の有効利用、環境保全という面では、コミュニティとしての面を強調しなければならないが、マス社会では互いの利害関係の交錯具合が見えにくいので、関係が紛糾した場合に備えて法律の整備と、契約的思考が必要になるのである。現代の日本人が直面しているリスクは、個人が自己責任を負う「契約社会」に慣れていないということにありそうである。
3-2 コミュニティとアソシエーションの間
宗教団体にはコミュニティ(地域共同体)とアソシエーション(結社組織)の2つの側面がある。キリスト教に関して言えば、ヨーロッパや南北アメリカ、アフリカの一部や韓国においてはコミュニティの要素が強い。教会に所属し、礼拝に出席することは地域の安定的なメンバーになることである。他方、クリスチャンが宗教的少数派である日本のような社会では、比較的広範囲から信者が集まる広域コミュニティの要素と、同じ信仰を持つものの福祉的アソシエーションという要素を併せ持つ。聖神中央教会のように一部の信者が共同生活をして教会に奉仕する教団であれば、コミュニティというよりはコミューン(同質性の高い人達の集団居留地及び団体)となろう。
先に述べたコミュニティ・レベルの社会からマス社会へというのは世の趨勢であるが、マス社会においても、利害や信条を共にするアソシエーションが盛んに作られる。コミュニティのルールが生活の共同性に基づく相互規制・相互扶助であるとすれば、アソシエーションの特長は、メンバーの貢献(義務)と利得(権利)が明確化された目的集団ということであろう。これは、宗教団体の特性を考察するために、暫定的に定義した理念型である。宗教団体において発生する種々のトラブルは、本来、アソシエーション的特性を持つはずの教会が、信仰共同体という理想主義のために、コミュニティないしはコミューン的特性を過度に帯びてしまうところにある。
信者は神に導かれて教会員になったと主観的には理解しているだろうが、教団による働きかけ(布教)と信者自身の選択(入信・回心)が一致した結果、その人は所属集団を定めたのである。真理を探求し、自分や家族が幸せになるために教会のメンバーシップを得たはずなのである。
ところが、信者となり、カリスマ的宗教者の下で教団活動に従事するようになると、このような人生の経路は予め定められていたように思え、その教団に所属し続けることは運命のように考えられるようになる。自分や周りの人々に不都合が生じれば、所属する教団を変えればいいのであるが、それができなくなる。本人の志向性や慣れ親しんできた教団から離れがたいということもあるが、多くは教義や教団の運営方針による囲い込みの結果でもある。
宗教組織というものは、人生観・世界観を構築し、幸福感を提供するための専門的社会組織であると考えれば、同じような組織はあまたある。教団の指導者も宗教職能者の一人に過ぎないわけであるから、道を求めてきた人に対して、ここでしか幸せになれない、ここを去れば不幸になるとまで断言するのは行き過ぎである。
しかしながら、このような言辞を弄する宗教者や教団が少なくない。同じことを学校の教師、医者や弁護士が言えば、不適格者のそしりを免れない。現代の宗教者や教団も同じである。一般社会においては、専門職が享受できる特権(独占的専門職能の公認)と、顧客や社会に追う義務(契約や取引に関わる法の遵守)が同時に求められるのである。これをもって宗教の権威が失墜したとか、世俗化したとか解釈されるべきではない。宗教団体も市民社会の一市民、一団体に過ぎないことは、宗教法人法により公共の福祉に資する団体としての地位と処遇(免税措置等)を得ていることから明らかである。
3―3 市民社会のアソシエーションに求められる要件
政治学者の山口定は、市民社会における「公共性」を判定する基準として以下の8つの要件をあげている(山口定『市民社会論』有斐閣、2004年)。その一つ一つを市民社会の一員たる宗教団体に求められる公共性として捉え直してみると、おおよそ次のようなことになろう。これが、筆者の今回の事件を通して考えた、宗教団体に期待したいことがらである(最初の見出しは、山口自身が使った言葉である)。
<1>「社会的有用性」もしくは「社会的必要性」
宗教的価値観は多様であってしかるべきであるが、宗教法人の地位を認められた教団の活動には公益性が必要である。教団の教勢拡大をもって人を救い、世界を救済していると考えるのは独善である。
<2>「社会的共同性」
人と人、人と自然、人と社会との関係性に関わる認識を形作り、絆を具体的に創出してきたのが宗教であった。伝統宗教の良さを残しつつも、旧弊を脱して、新たな社会の共同性(平和的世界、地球環境の保全等)や個人化する社会の連帯感をどのように築いていけるのかが、現代宗教には問われている。
<3>「公開制」 宗教組織における人事、予算執行、活動状況に関わる事柄を可能な限り公開し、外部から評価できるよう組織運営を透明にするということである。これはまず教団内のメンバーに対して開かれるべきことであろう。秘匿することで権威と価値を高めるのは御神体や秘仏で十分である。
<4>「普遍的人権」 宗教団体が唱える人間の価値は法的規定を超えた精神的次元に達するものである。宗教活動が個人の成長、自己実現に資することは当然として、戦争の廃絶や平和の実現にも貢献する人間像や社会観を提示すべきであろう。
<5>「国際社会で形成されつつある『文化横断的諸価値』」
宗教間対話の継続によって、個々の文化的・歴史的宗教に共通する宗教性に関わる認識が形成されている。お互いにじっくり話し合えば、異質性よりも同質的な要素が少なくないことに気づいてくる。宗教が国際紛争の原因というのは、地政学的要因を隠蔽する政治的言説でしかない。葛藤の根は政治にある。政治家が批判の矛先をかわすために宗教を利用するのである。
<6>「集合的アイデンティティの特定のレベル」
宗教団体は信者にとってアイデンティティ(自分らしさ)の根幹であるかもしれないが、他の人々は様々なアイデンティティ形成に関わる集団に所属している。しかも、現代人は様々な集団に同時に所属し、それに応じた状況的アイデンティティを使い分けている。このようなノマド的アイデンティティのあり方において、宗教人であること、信仰を持つ者であると表明することはどういうことなのか。サブカルチャーに属しているということではないだろう。これこそ、宗教はある種の普遍的思想の次元に関わることの表明であり、宗教団体の公共性・公益性という活動の次元と関連させて考えられるべきことではないだろうか。
<7>「新しい公共争点(リスク問題)への開かれたスタンス
「カルト」問題の大半は、宗教団体が公共性を意識せずに教団活動や組織運営をしていることから発生する問題である。「カルト」化する教会と評せられた教団は、従前の教団のあり方としては許容されたことであっても、現代の人権的感覚からすると問題視されるものが含まれているということなのかもしれない。教団のあり方(教団独自の世界観)を規定する上位の価値観(公共的価値)が社会に存在しているということを認めて、それを内部化する努力が現代の宗教団体に求められているのである。
<8>手続きにおける民主性
宗教団体の組織運営において、指導者は説明責任を負い、情報を信者に公開し、信者に教団活動への主体的な参加を求めるべきであろう。首長と市民を比べると、社会的地位・権限では首長が上であるが、人間的価値においても上ということはない。職務の役割からすれば、行政は市民へ奉仕する使命があるとすらいえる。ところが、宗教団体の場合に、この逆のことがしばしば生じるのである。この原因と問題解決の施策はこれまでに述べたとおりである。宗教団体の公共性への認識が高まることを望む。
■櫻井 義秀(さくらい よしひで)氏 1961年4月、山形県上山市生まれの44歳。84年、北海道大学文学部哲学科卒業。87年3月北大大学院文学研究科博士課程中退。北星学園女子短期大学家政学科専任講師、北大文学部講師を経て、2004年から同大大学院教授。専攻は宗教社会学。







関連サイト

シリーズ一括読み
http://www.bnn-s.com/news/series_cd134.html

櫻井義秀氏HP
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/






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