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独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第3回


 
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| 朝鮮北東部と満州国間島省(原図製作・惠谷治、デザイン・鍵本博子) |
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第1部 金正日の出生の秘密を暴く
第1章 抗日パルチザン時代の金正日の母親の活躍 『金日成伝』のなかの生母・金貞淑 白峯著『金日成伝』は、1968年に刊行された最初の公式伝記である。そのなかに金正日の母、金正淑が「金貞淑」という漢名で、さり気なく登場する。1970年代まで、北朝鮮ニュースを専門的に取り扱う『朝鮮通信』を含め日本、韓国の各種報道機関は、金正日を「金正一」、そして金正淑を「金貞淑」と表記していた。1980年10月、金正日が朝鮮労働党第6回大会で公式の場に初デビューして以後、漢字表記は金正一から金正日に変更され、同時に金貞淑も金正淑と改められた。
正一(ジョンイル)が「正日」と改名されたのは、金日成の「唯一後継者」としての正統性を誇示するため、母の貞淑(ジョンスク)と父の日成(イルソン)の双方の名前から一字をとった名前であることを示すためだったと考えられる。そのため、正一は「正日」、貞淑は「正淑」に変更されたに違いない。母の「正」と父の「日」の字から成る「正日」はまさに、金日成と金正淑の正統な嫡男というわけである。朝鮮には父や祖父から一字をもらうアフターネームの習慣はないといわれるが、進歩派を自認する共産主義者はそうした伝統を無視したのだった。
北朝鮮では「日帝時代」の残滓を払拭し、識字率を向上させるという理由で、1949年から漢字を全廃した。そのため、ハングル表記だけでは漢字を知ることは不可能となり、そうした混乱に乗じて、金正日の漢名は平然と変更されたのである。共産主義国家の要人の名前は革命家当時の変名も多く、同一人物の特定や、本名や漢字を確定するのが困難なのが実情である。以下、本文では混乱を避けるため、引用文を除いて金正淑の表記は、本名の金貞淑に統一するが、金正日は通名どおりとすることにした。ちなみに、金日成の本名は金成柱である(但し、この漢字表記にも諸説がある。詳細は拙著『金日成の真実』を参照願いたい)。
初の公式伝記『金日成伝』には、金日成と金貞淑の出会いや、結婚した話はなく、金貞淑が金日成の夫人であるという紹介もない。当然ながら、金正日もまったく登場しない。この事実は、1968年以前は北朝鮮において、金日成の後継者を金正日にするという雰囲気ではなかったことを示している。1960年代の北朝鮮は、現在と比較すればはるかに健全な社会だった。
金貞淑の生涯について、今では多くの伝記が発行されるようになったが、私が知る限り、日本語による成律子著『白あんずの花のように』(1989年)や、山下正子著『炎の女性』(1990年)が、比較的早く出版された半公式伝記である。北朝鮮では最新版であるほど捏造部分が多くなるため、初期の伝記の内容のほうが資料としては重要である。これらの伝記作家たちは現地取材もしており、この2冊の伝記を中心に、北朝鮮で発行された『永遠の女性革命家』(1989年)、『朝鮮の母、金正淑』(1997年)、『金正淑伝』(2002年)などを参考にしながら、先ずは金貞淑の活動を中心として、満洲における抗日パルチザン闘争を概観してみることにしよう。
金貞淑は、1917年12月24日、朝鮮北部の咸鏡北道会寧の貧農の娘として誕生した。この年月日は、ロシア十月革命の年のクリスマス・イブということになる。金貞淑は、姉の金貞順(彼女の名前も改名され正順とされているが、『金正淑伝』では貴人女という奇妙な名前になっている)、兄の金基俊、弟の金基松の4人兄弟の次女で、金貞淑が5歳になる年の春、一家は新天地を求めて国境の豆満江を渡り、満洲の間島省延吉縣北溝に移住した。その7年後、父親の金忠善が病死したため、残された家族は、その年の6月、延吉縣富岩洞の下ノ村という僻村に移り住んだのだった。(つづく) 






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