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独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第4回


 
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| 間島省の抗日武装闘争の拠点(原図製作・惠谷治、デザイン・鍵本博子) |
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第1部 金正日の出生の秘密を暴く
第1章 抗日パルチザン時代の金正日の母親の活躍 母は孤児となり遊撃根拠地に移動 1931年9月18日に満洲事変が勃発し、翌32年3月1日、長春で「満洲国」の建国が宣言されると、満洲国傀儡政権の打倒を目指し、満洲では抗日武装闘争が活発化した。その年の7月17日、渓谷の村に押し寄せた日満軍警の討伐隊によって、金貞淑の母である呉福徳と兄嫁の崔仁順が殺害されたという(『炎の女性』28頁。『金正淑伝』1と14頁では、不思議なことに母親の名前はフルネームはなく「呉氏」としか書かれておらず、討伐隊が襲撃したのは7月15日の朝となっている)。
しかし、中共抗日連軍のパルチザンだった呂英俊は、次のように証言している。
「私は金正淑とは幼い頃からの知り合いだったので良く知っていてね。1931年頃、八道溝のトンコリに金英順、朴成哲(後に国家副主席)の夫人だが、その金英順などと同部落に住んでいた。1932年にコレラが流行して、多くの人が死んだり、部落から逃げ出してしまったことがある。部落に訪ねて行ったら、金正淑が一人で残っていて、びっくりしたもんだ」(金賛汀著『パルチザン挽歌』200頁)
この呂英俊証言から推測すると、金貞淑の母と兄嫁はコレラで死んだ可能性も十分考えられるが、それを確認することはもはや不可能である。
15歳で孤児となった金貞淑は、八道溝の鉱山で働くことになった兄の金基俊と別れ、3歳下の弟の金基松とともに、上流部にある上ノ村に移った。しかし、上ノ村の住民たちは討伐隊の追撃を避けるため、さらに上流部の長財村へ移動した。金貞淑は長財村で児童団の指導員として、子供たちの世話をしていたという(『炎の女性』33頁。『金正淑伝』14頁には、金貞淑は「1931年9月12日、金日成将軍によってつくられた青少年の半軍事祖師機である少年先鋒隊に入隊した」、また、15頁には「1932年7月25日、金日成将軍の指導する朝鮮共産主義生年同盟に加盟した」とあるが、これらの組織は架空のものであり加盟日も捏造である)。
しかし、執拗な日満軍は、1933年12月、山奥の長財村にまで攻勢を仕掛け、金貞淑を含む村人たちは、吹雪をついて延吉縣三道湾にある遊撃根拠地(抗日パルチザンの解放区)に移動した。その途上で、13歳だった弟の金基松が日満軍に殺害されたということになっている。ちなみに、兄の金基俊は32年末に獄死、姉の金正順は行方不明、と伝えられている。「彼女が物心ついたころから目にしたのは、馬賊が土ぼこりをあげて駆けまわる北間島〔満洲東部の間島省北部〕のすさんだ山野であった。金正淑は両親と兄弟姉妹をつぎつぎと失った。父親は独立運動家であった。敵に捕らわれてむごい拷問にかけられたこともあれば、野宿して凍傷を負ったこともあり、それがもとで重病を患い早くして世を去った」(『世紀とともに』第5巻323頁)
金日成は金貞淑の家族について、以上のように書いているが、金貞淑の父親が独立運動家だったという資料は見当たらない。
金正日の側近といわれ、交通事故がもとで2003年10月に死亡した金容淳党書記は、金貞淑の弟とか義弟という情報があったが、金貞淑の兄弟は全員死亡しており、行方不明の姉の縁戚、あるいは両親の親族なのかもしれない。金貞淑の父、金忠善には金忠植という弟がいることが判明しており、その縁故者だった可能性も考えられる。(つづく) 






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シリーズ一括読み
http://www.bnn-s.com/news/series_cd129.html






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