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独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第6回


 
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| 中共東北抗日連軍の組織編成(原図制作・惠谷治、デザイン・鍵本博子) |
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第1部 金正日の出生の秘密を暴く
第1章 抗日パルチザン時代の金正日の母親の活躍
生母・金貞淑のパルチザン部隊入隊(その1) 「金正淑は1935年9月、安図県車厰子へ行った。日本軍の狂気じみた『囲攻作戦』に対処し、白頭山の原生林地帯へとつながる車厰子に新しい遊撃区が生まれたのは1934年であった。正淑は、老人や病弱者、子どもを連れ、いちばん最後に三道湾を発った。80キロ余りの道を歩いて車厰子に着いた3月20日頃には、すでに人民革命政府機関や遊撃隊の兵舎、児童団学校、病院、兵器修理所、縫製所などが設けられていた。金正淑は炊事隊の仕事をしながら遊撃区の共青組織の指導にあたることきになった」(『金正淑伝』42頁)
金日成が金貞淑と初めて会った数ヶ月後(1935年5月)、4個団(連隊)から成る東北人民革命軍第2軍が正式に編成され、金日成は「第2軍第3連隊政治委員」となった。1936年3月末、安図縣迷魂陣で開かれた第2軍の会議に、金日成は幹部として出席したが、この会議で東北人民革命軍は「東北抗日連軍」に改編され、「師団制」が採用されることになった。そして、金日成は「東北人民革命軍第2軍第3連隊の政治委員」から、「東北抗日連軍第2軍第3師の師長」に昇進したのだった。
「1935年、金貞淑同志は金日成将軍の指導する抗日遊撃隊に入隊し、車厰子でわたしとともに炊事隊員として活動するようになった。わたしは、金貞淑同志といっしょに生活しているうち、かの女のあたたかい革命的同志愛に感動したことが、一度や二度ではなかった」(金明花「金貞淑同志を回想して」『朝鮮人民の自由と解放』358頁)
古参女性パルチザンの金明花(当時32歳)は、手記のなかで回想している。金明花はその2年前、延吉縣王隅溝北洞の遊撃根拠地で開かれた児童団の集会に来ていた金貞淑と出会っており、すでに顔見知りの仲だったという(『白あんずの花のように』87頁)。
金貞淑は抗日遊撃隊に入隊してからは、炊事隊員、あるいは児童団指導員として活動した(共青組織を指導していたというのは虚構である)。にもかかわらず、伝記『白あんずの花のように』は、車厰子根拠地での金貞淑について、次のようなエピソードを紹介している。
「車厰子のはずれの山中で新入隊員を歓迎する記念射撃競技会が開かれた。〈略〉先輩隊員の模範射撃が終わり、新入隊員の射撃が始まった。目標は300m先の半身型の的であった。〈略〉[金貞淑]女史はゆっくりと位置につき沈着に標識に向けて引き金を引いた。銃声が続けざまに鳴った。弾丸は全部命中していた」(『白あんずの花のように』66頁)
弾薬を節約しなければならないゲリラ部隊において、炊事隊員が射撃競技会に出場するはずはないと思われるが、北朝鮮では金貞淑は射撃の名手ということになっており、こうした話が創作されたのだろう。
前出の呂英俊は、次のように証言している。
「彼女〔金貞淑〕が金日成の部隊に入ったのは1936年の春で、長白県でのことだった」(『パルチザン挽歌』200頁)
しかし、この呂英俊証言は、場所も年月も他の証言と異なり、明らかに記憶違いである。
伝記『炎の女性』(42頁)や北朝鮮で発行された伝記『朝鮮の母、金正淑』(36頁)は、金貞淑が「抗日遊撃隊」に入隊したのは1935年9月としているが、金日成は金貞淑が、「1935年の春、能芝営の党書記処で働いていた」と回想している。つまり、1935年9月に入隊したのであれば、能芝営の党書記処で金貞淑は「炊事などを手伝っていた」ということになるが、その時点で入隊していた可能性も否定できない。
ちなみに、最近刊『金正淑伝』(52頁)では、「1935年9月18日、金正淑は車厰子遊撃区で朝鮮人民革命軍に入隊した」となっている。こうした重要な日付は、古い伝記には書かれておらず、伝記が新しくなるほど内容が具体的になるのが、北朝鮮の伝記の特徴である。通常であれば、研究者たちが古文書を発掘し慎重に事実関係を認定して、新しい伝記が詳しくなることもあるが、北朝鮮の場合は、具体的になっているのは死者の記憶が蘇らない以上、作家たちが捏造しているからなのである。(つづく) 






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シリーズ一括読み
http://www.bnn-s.com/news/series_cd129.html






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