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独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第18回


 
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| 金貞淑が愛用のミシンと軍服縫製の図。金貞淑が使用したという手廻式ミシン(左)と「金日成将軍の命を受け軍服をつくる金正淑女史」という説明があるイラスト(『朝鮮の母金正淑』87頁より) |
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第1部 金正日の出生の秘密を暴く
第1章 抗日パルチザン時代の金正日の母親の活躍
物資調達のための劉通事誘拐事件 その後、金日成は和龍縣の牛心山近くの龍潭村に住む「満人豪農」である劉依賢を誘拐して、資金や物資を入手するという人質作戦を立案した。大地主の劉依賢は満洲族にもかかわらず朝鮮語が流暢だったため、地元では「劉通事(通訳の劉)」と通称されていた。
金日成は部隊を率いて、和龍縣三道溝の北西にある枕峰(同じ地名が朝鮮側にもある)の密林に移動した。そして、作戦を敢行したにもかかわらず、劉通事に逃げられて拉致に失敗すると、その弟と甥の2人を人質にして引き上げた。
「ある日、彼〔人質で劉通事の弟の劉依清〕は筆と紙を所望しました。〈略〉金と財物で金〔日成〕司令を援助したいと言って、兄の劉依賢〔劉通事〕宛に手紙を書くのでした。〈略〉弟と甥を山にやって、それとなく不安の日々を送っていた劉通事は、弟からの手紙を受け取ってたいへん喜びました。そして、いついつまでにそちらで必要とする物資を準備しておくから、荷を運搬する人たちをよこしてほしいと言ってきました」(『世紀とともに』第7巻・平壌版293頁)
金日成は回顧録のなかで厚顔無恥にも脅迫要求を、人質の自発的行為であるかのように書いている。しかし、劉通事の弟である劉依清は阿片常習者で、金日成は阿片の支給を条件に、要求文を書かせたのだった。
金日成の指示により、警護中隊政治委員の李鳳禄が1個小隊を率いて物資を受け取りに行ったが、劉通事から奪取してきたものは、「数百着の軍服が仕立てられる」量の天竺木綿、地下足袋、白米、小麦粉、煎餅、豚肉、大豆油などの衣食類だった。金日成は図々しくも「そういう物資を3回も送ってくれました」と書いており、3度も脅迫して強奪したことが分かる。
人質誘拐作戦の結果、大量の布地を入手した金日成は、第1路軍の女性隊員とすべてのミシンを、烏口江(オルギ江)密営に集めた。回顧録ではオルギ江を「烏口江」としているが、「奥爾基江」、あるいは「☆沂江」という表記もある。
オルギ江密営には、全部で32名の女性隊員が集合した。最年長(29歳)の崔希淑の指揮により、綿布は軍服に仕立てられていった。軍服のデザインは、満洲当局が組織した住民による「自衛団」の制服に酷似した夏服と冬服で、金日成が攪乱作戦を想定していたことが分かる。この戦術は現在も踏襲されており、北朝鮮には大量の韓国軍の軍服が備蓄されているのである。
32名の女性隊員たちは、白い綿布を黄色の樹液で染色したのち、持ち込まれた足踏式ミシン4台と手廻式ミシン2台で縫製した。全員が早朝から深夜まで働き、2カ月ほどで600着以上が製作され、制服は出来上がるたびに各地の密営に送られた。
この事実は、日本の治安当局に把握されていた。というのも、日本の特務機関(行政的には満洲国間島省警務庁)は、第2方面軍第7連隊の機関銃小隊長である姜興錫の妻、池順玉(当時23歳)を、「生間(生還する間諜)」と呼ばれるスパイとして、第2方面軍内部に潜入させていたのである。
「1939年の秋、オルギ江付近の森林のなかで、数百着にもなる隊員たちの冬服を裁縫隊員たちとともに、1カ月以上ほとんど毎日のように徹夜しながらミシンがけをしてついに期限前につくりあげた話などは、金貞淑同志が革命任務を遂行するにあたって、いかに高度の責任感と意志の強さを発揮したかをものがたっている」(金明花「金貞淑同志を回想して」『朝鮮人民の自由と解放』363頁)
朝鮮潜入工作の任務を終えた金貞淑が、いつ密営に戻ってきたのかは不明であるが、働き者の金貞淑は大量の軍服縫製作業にも参加していたと金明花は証言している。また、金日成自身も次のように回想している。
「崔希淑は1939年の秋、烏口江一帯で大量の軍服の製作にあたったときも、金正淑と力を合わせて仕事をりっぱにやりとげたものです。軍服の製作で発揮した崔希淑の強い責任感と功労を評価し、わたしは彼女に金の指輪と時計を贈りました」(『世紀とともに』第7巻・平壌版245頁)
崔希淑は、張哲九と金明花に次ぐ年長の女性隊員だった。金日成は戦利品として強奪した金の指輪をいくつも持っており、報奨品として女性隊員に与えていたことは、前述した金貞淑に対する例でも明らかである。こうした報奨品の授与により忠誠心を高めさせる手法は、現在の金正日政権にまで連綿と引き継がれている。
「劉通事は、自分の弟が軍医処の非常用アヘンを消費した代償として、木枕ほどのアヘンの塊まで送ってよこしました。われわれは、その年の中秋を間近にして劉通事の弟と甥を帰らせました。〈略〉彼らを帰らせた後、われわれもすぐ烏口江密営を離れました」(『世紀とともに』第7巻・平壌版300頁)
その年の「チュソク(中秋)」は、9月27日だった。金日成は身代金について一切言及していないが、劉依清に与えた阿片代金も要求した結果、大量の阿片が届けられたと思われる。北朝鮮の人質拉致作戦や阿片の活用は、パルチザン時代からの伝統なのである。(つづく)
☆は利のへんが舟 






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