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独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第20回


 
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| 第1路軍総司令の楊靖宇と彼の遺体。中国で公表されている楊靖宇の肖像画(左)と、1940年2月23日、通化省警務庁の討伐隊が射殺した直後の楊靖宇の遺体。中国共産党は楊靖宇が最期を遂げた通化省の濛江縣を靖宇縣と改名して、抗日烈士の功績を称えている |
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第1部 金正日の出生の秘密を暴く
第2章 ソ連逃避行の途上で父母は電撃結婚
地理的地帯を彷徨する金日成部隊 関東軍による東辺道討伐作戦が本格化するにつれ、南満一帯で遊撃活動を展開していた第1路軍は、非常に困難な状況に追い込まれていった。
第1方面軍と直属部隊を率いる第1路軍の楊靖宇総司令は11月末、濛江縣の県境で討伐隊に包囲されたが、辛うじて危機から脱出した。楊靖宇を追撃していた討伐隊の先頭には、1年ほど前、関東軍に投降、帰順した楊靖宇の片腕ともいわれた第1軍第1師長の程斌が案内役を務めていた。程斌は、当然ながら一帯の地理に詳しく、パルチザンの秘密や行動経路などを熟知しており、通化省警務庁の討伐隊による追撃を大いに助けたのだった。
東北抗日連軍の遊撃活動は、南満のみならず北満でも厳しい状況に陥っており、中共北満省委常務委員で第3路軍政治委員だった馮仲雲は、1939年9月、国境を越えてハバロフスクに赴き、北満省党委と吉東省党委の拡大会議を開き、両党組織の統一と第3路軍と第2路軍の統合するという問題で、ソ連側に協力を求めた。そのため、第2路軍総司令の周保中と元第3軍長の趙尚志がハバロフスクに呼ばれ、12月下旬より3者による協議が始まった。正式の会議は1940年1月24日から2月4日まで開催された。
この会議において、路軍は「支隊-大隊-中隊-小隊」(原文)に改編されることが取り決められた。また、遊撃活動については、農民との連係が失われている現状では、「経常活動根拠地(固定根拠地)」と「非常時期根拠地(臨時根拠地)」が必要であり、更に、ソ連領を利用する「仮装根拠地」も必要であるという結論に至った。そして、中共党中央との連絡が途絶えている現状では、コミンテルン(世界革命を目指し1919年にモスクワで結成された国際共産党)の同意を得て、極東赤軍による友好的な指導のもとに連携を確立し、一定の物質的援助を受ける一方で、抗日連軍が得た日本軍の情報を極東赤軍に提供することが合意された。
この3者会談での結論をソ連側に示した上で、1940年3月19日、ソ連側との合同会議が開催された。この会議でソ連の極東党組織と極東方面軍が、中共東北抗日連軍に対して指導と援助をおこなう関係になることが合意され、現状の困難な形勢のなかでは戦術を改め、武装闘争は「小組部隊」による活動方式に転換することが再確認された。これがいわゆる「第1次ハバロフスク会議」と呼ばれるものである。そして、王新林(ワシリイ)がソ連の党と軍を代表する連絡員となり、抗日連軍との連絡、調整にあたることになった。
野副討伐隊の作戦が強化されていくなかで、第1路軍は「分散遊撃」を独自決定し、第2路軍と第3路軍は極東赤軍の協力を得て統合し「小組部隊」として活動する方針が、期せずしてほぼ同時に決定した。しかし、こうした上層部の決定を知らない金日成は、独自の遊撃活動を展開していたのである。
金日成が率いる第2方面軍は、1940年に入ると、吉林省敦化縣から通化省長白縣へと大移動し、2月上旬に再び北上した。その直後、金日成の部下が脱走する事件が起きた。第2方面軍参謀長の林水山は、2月20日、恋仲の女性隊員を含む部下14人とともに、軽機関銃2梃をもって関東軍に投降したのである。林水山は帰順後、林水山工作隊を組織し、野副討伐隊の一員として、金日成部隊の追撃に励むことになる。
当時、関東軍の延吉憲兵隊は金日成の行動を詳細に把握しており、2月の秘密報告(日本軍憲兵隊発行の『思想対策月報』)には次のような記述がある。
「金日成匪、約200名は、敦化、樺甸、撫松縣下を流動中のところ、2月22日、撫松縣東岔より頭道白河を渡渉、2月24日、安図縣に侵入し、2月29日、☆頭山東側より白色地帯を経て、安図縣城東南約18キロの花拉子部落に出現、更に☆頭山東方白色地帯に逃走せり」
この機密報告にある「白色地帯」というのは、白頭山山麓の大森林地帯のことで、未測量地域のため「地理的空白部」になっていた。地図上では白紙状態だったため「白色地帯」と呼ばれていたのである。
一方、第1路軍総司令の楊靖宇は、通化省警務庁の討伐隊に決定的に追い詰められていた。2月23日、濛江縣三道□子において完全に包囲され、投降の呼びかけを拒否して、遂に射殺された。討伐隊は楊靖宇の遺体を撮影し、その写真を宣撫工作用に配付した。そして、切り落とした首を濛江や通化で晒しものにして、作戦の成果を誇示したのだった。楊靖宇の遺体は解剖されたが、胃のなかは野草の根と木の皮だけだったといわれ、孤立した環境で食糧入手が不可能だったことを物語っていた。
また、第3方面軍を率いて敦化から鏡泊湖一帯に進出する予定だった第1路軍副総司令兼政治部主任の魏拯民は、頭道溜河会議の直後から持病が悪化し、部隊とともに転戦できなくなり、第1路軍軍需処長の全光が管理する頭道溜河の密営に留まらざるを得なくなった。そこが終の住処となる。(つづく)
☆は女へんに乃、□は威に山かんむり。 






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