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ジャーナリスト・惠谷 治「独裁者の秘密を徹底検証ドキュメンタリー金正日」
独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第22回


03月05日(日) 00時00分
文:惠谷 治 



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パルチザン討伐のため投入された飛行機。野副討伐隊が作戦完了後の1941年3月に作成した『吉林・通化・間島3省治安粛正工作記念写真帳』には、治安工作に投入された複葉機の写真が掲載され、手書きのキャプションがあるが、左端の「山田飛行士」と1人おいて「北部参謀」の2人の名前しか判読できない。作戦の計画大綱を書いた北部邦雄中佐は情報参謀だったが、飛行服を着用しており、パルチザンの動静を空から自分の眼で確かめていたと思われる
 第1部 金正日の出生の秘密を暴く

 第2章 ソ連逃避行の途上で父母は電撃結婚

 ポルノグラフィを散布した関東軍

 延吉憲兵隊の秘密文書である『思想対策月報』の1940年3月号は、当時の金日成部隊の兵力と武装について、次のように記録している。

 「金日成匪、兵力約150名(鮮女7名あり)にして、装備は軽機〔関銃〕7挺、小銃130挺、拳銃20挺、諸弾薬1万発、天幕7、食糧15日分を携行し、なお、金日成匪が直接携帯せる現金3万円余あり」

 記述にある「鮮女7名」のなかに、金正日の母である金貞淑が含まれていることは疑いない。伝記『金正淑伝』170頁によれば、金貞淑は紅旗河戦闘の際は金だらいを背負っていて、討伐隊を誘引して打ちこまれた2発の銃弾が、金だらいに命中したという。2つの弾痕が残る金だらいは、現在、平壌の朝鮮革命博物館に展示されている。

 紅旗河戦闘において負傷した第2方面軍政治部主任の呂伯岐は、治療に専念するため本隊から離れたが、6月29日に潜んでいたところを討伐隊によって逮捕された。第2方面軍本隊は二手に分かれ、主力部隊は安図縣花拉子一帯に転進し、他の部隊は撫松縣馬鞍山に入り、討伐隊の追撃を回避することになった。

 一方、第1方面軍では、政治部主任の柳万煕が、3月12日に部下に暗殺され、4月8日には、第1方面軍指揮の曹亜範が濛江縣龍泉鎮西翁圏で宿営中に、農民の裏切りによって惨殺された。第3方面軍指揮の陳翰章は、敦化縣で遊撃活動を展開していたが、牛心頂子戦闘で部下の大半を失い、本人も負傷していた(翌年12月8日に戦死)。崔賢が率いる第3方面軍第13連隊、安吉政治委員が率いる第14連隊は辛うじて活動を続けていたが、李龍雲の第15連隊は部下の多くを失って壊滅状態だった。

 4月初め、第1路軍の副総司令兼政治部主任の魏拯民は、病身ながらもモスクワのコミンテルン中共代表に宛てて、第1路軍が置かれている困難な状況を書き送った。その報告書は送付途上で日本側に鹵獲され、モスクワには届いていない。その内容は翻訳され、高等法院検事局思想部の機密文書『思想彙報』第25号(1940年12月発行)に掲載された。

 「1938年夏季の程斌の叛変とこれらの敵軍利用により、敵は我らの破壊離間政策を赤裸々に工作しあるをもって、隊内の思想は相当に変化を生じたり」

 この報告書には、当時の関東軍による特別工作の興味深い内容が書かれている。

 「〔敵は〕物資と性的問題をもって我らの隊内の落伍分子を誘引し、革命より離脱せしむ。隊内生活困難と性的問題、その他(白米、麦粉、酒、魚の不足)食糧問題の欠点を狙い、各地に派遣せる工作小部隊同志らを買収せんとし、比較的美しき娼妓(18、9歳)らを派遣し、直接性的問題を解決せしむるか、あるいは我らの活動区内に男女性交(裸体)写真などを散布し、もって我が軍の青年戦士を誘引投降せしむるのである。投降せしものには常に個人撮影をなさしめ、隊員同志に投降勧誘の材料にする」

 関東軍は武力だけではなく、若い娼婦を山中に差し向けたり、潜伏地域にポルノグラフィをばら蒔いたりして、若いパルチザンたちの士気を削ぐ心理作戦を強力に展開していたのである。また、飛行機を飛ばして「白色地帯」を偵察し、空中からパルチザンを追跡するという現代的な手法も導入していた。冬季には雪原の足跡が追跡できるので、その効果は絶大だった。

 食糧の確保が困難を極めていたなかで、金日成たちはメーデーの日(5月1日)を安図縣車厰子付近で迎えた。

 「1940年のメーデーのときは酒はおろか何もありませんでした。それで小川の蛙を捕って食事に代えました。祝日をそういうふうに過ごしたのですから、普段は言うまでもないでしょう」(『世紀とともに』第8巻・平壌版23頁)

 金日成は以上のように回想しているが、前年の「苦難の行軍」が終った直後のメーデーについては、次のように書いている。

 「パルチザン生活がいかに困難であっても、メーデーのときだけは食事を抜いたことがありませんでした。小徳水の台地で迎えた1939年のメーデーには、隊員たちに酒までふるまったものです」(『世紀とともに』第8巻・平壌版23頁)

 メーデー当日の状況を比較すれば、1940年5月は非常に厳しい食糧事情だったことが分かる。

 「この年のメーデーは、食糧と塩まできれた困難ななかで迎えた。〈略〉この日われわれは、近くの小川で蛙をとることにした。原始林におおわれた山の谷あいなので、氷はまだはりつめているところでもあり、蛙もろくに冬眠からさめていない時であった。けれども、いろいろ苦労したあげく、われわれは約50ー60キロの蛙をとった。〈略〉そして飯ごうに水をいれてから、一つの飯ごうに5、6匹ずつの蛙をいれて、煮はじめた。数日間なに一つ口にしていなかったわれわれは、蛙の煮えるおいしそうなにおいに、飢えたはらわたが一度にぐうぐう鳴りだすような気がした。やがて食事の準備がととのい、われわれは高級料理以上においしく食べた」(林春秋「忘れられないメーデー」『朝鮮人民の自由と解放』177頁ー179頁)

 第2方面軍第8連隊の医官で、北朝鮮建国後に国家副主席にまでなった林春秋は、「蛙料理のメーデー」について、以上のように回想している。(つづく)







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