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恵庭OL殺人事件 伊東秀子弁護士が上告趣意書に記した「誤認」


 
「司法がずさんな捜査を追認した」と指摘。
恵庭OL殺人事件で有罪判決を言い渡された大越美奈子被告(35)の弁護団は、3月6日、最高裁判所に上告趣意書(上告理由書)を提出した。
事件は2000年3月16日深夜に発生。翌日午前8時20分頃、恵庭市北島の市道わきで、苫小牧市に住むOL・橋向香さん(当時24)の焼死体が発見された。
事件発生後、殺人と死体損壊の罪に問われ、逮捕、起訴されたのは、橋向さんの同僚で日本通運札幌東支店キリンビール千歳工場内構内課に勤務していた大越美奈子被告(35)。
大越被告は一貫して無実を主張してきたが、札幌地裁(遠藤和正裁判長)は懲役16年(求刑・懲役18年)の判決を言い渡し、被告が控訴した2審・札幌高裁でも1審判決を支持、控訴を棄却した。
1審から主任弁護人を務める伊東秀子氏は、上告趣意書の「あとがき」で、捜査の欠陥とそれ追認した裁判所に対し、以下のように指弾した。
この事件の弁護人を引受けてから、丸6年の歳月が過ぎようとしている。6年前もそうであったように、3月の北海道は今も雪に覆われ、白一色の世界である。私達在札幌の弁護士4名は、事件が発生した1ヶ月後(被告人が逮捕される前)からこの事件に関わることになり、無償の弁護活動を今日まで行ってきた。この上告理由書を書き上げた今、6年間という長きに亘って、この困難な弁護活動を我々に続けさせた持続のエネルギー、それは一体何だったのか、振り返ってみたくなった。もちろん、この事件に関わった8人の弁護人の一人ひとりにとって、その心を突き動かしたものは、様々であるに違いない。誰もが、被告人の「無実」を確信していることも間違いない。しかし、それだけではない。私達はこの6年間の訴訟経過のその時々において、危機意識にも似た「何か」をこの事件から感じとってきたからだと思う。刑事裁判とは、現代という時代及び社会において、事後的に、日常の中で暮らしている人間の行動と犯罪とを結び付けて、罪責の有無を判断する作業である。そこで最も重要なのは、裁判官の「人間を見る確かな眼」である。本件において、私達は、検察官や裁判官の現代の若い男女の恋愛における心理への観察眼があまりに硬直的であることに驚いた。その結果、安易に「殺意」や「死体損壊」の犯意を認定したことにも驚いた。こうした裁判官の「人間を見る眼」に対する「危機感」が、私達の弁護活動の源でもあったと思うのである。
被告人は、早来町という閉鎖的な田舎町の町営住宅に両親と住み、犯罪とは全く無縁のごく普通の生活を送ってきた未婚の女性である。そんな彼女が、突然、本件のような重大犯罪の被疑者とされた発端は、職場の先輩である恋人との「別れ」を巡って、年下の同僚の被害者に恋人の心が移ったかもしれないという女心の「猜疑心」から、事件の直前までリダイヤル機能による無言電話を架け続けていたためであった。
こうした男と女を巡ってのトラブルや疑心暗鬼は、毎日のテレビドラマにあるとおり、どこの職場にも見られる、ごくありふれた光景である。本件において、事件前の被告人と被害者を繋いだものは、たったこの「リダイヤル電話」だけであった。ところが、たまたま、事件の当日に被告人と被害者が連れ立って帰ったこと、前日に被告人が灯油10リットルを購入したことと合わさって、事件発覚の翌日には、被告人は警察から、「犯人」とマークされてしまったのである。この事実を知った千歳警察署は、事件発覚の翌日、彼女の「担当班」を設置し、他の一切を容疑者の範囲から排除してしまうほどの重点捜査を行った。その結果、被告人と犯人を結び付ける物証も直接証拠も全く出てこなかったにも関わらず、被告人を逮捕し、起訴してしまったのである。
そしてこの5年半、被告人は「殺人」「死体損壊」の被告人として、裁判を受け、2度に亘って有罪判決を受けることになったのである。私達は、この訴訟過程にずっと携わってきた。そして、事実審である裁判官の、若い男女の恋愛を巡る感情に対する観察眼があまりにも硬直したステレオタイプなものであることに、「合理性」を判断基準にして、いきなり、「殺意」や「死体損壊の故意」を認めてしまった事実認定の安直さに、刑事裁判そのものに対する危機感を抱いてしまったのである。
私達は、事件を巡る事実関係を調べれば調べるほど、本件における被告人の「日常生活」と残酷な犯罪事実の「非日常性」との不連続性や乖離に悩んだ。そして、この2つを繋いだのが警察の見込捜査であり、その裏にある捜査のずさんさと、異常な捜査手法に対して、驚愕の念を禁じ得なかったのである。
本件においては、このような「捜査」を追認する形で公判が維持され、原審の裁判官は「99.9%の有罪率」を維持することがあたかも当然であるかのように、被告人に対する有罪判決を下したのである。このままでは、「いつ、誰が、このような犯人にさせられていまうか判らない」という恐怖感が残る。
原判決の事実認定によれば、前日に灯油を購入して被害者の死体損壊の準備をした被告人が、事件当日、いつものとおり職場に出勤し、仕事の合間には行きつけのエステに電話をしたり、二重引き落しのクレームの電話をカード会社に架けたりと、いつもと変わらぬ職場生活を送っている。 しかも、被告人は「殺人」と「死体を焼く」という猟奇性のある重大犯罪を犯した直後、平然とガソリンスタンドに立寄って、いつものとおりの1000円分のガソリンを入れ、自宅に帰って冷蔵庫の中に刺身があるのを見て、近くのコンビニにビールを買いに行き、刺身を肴にビールを飲んでいるのである。原判決によれば、事件当日のあまりにも日常的な被告人の行動と、「殺人」と「死体損壊」という日常性から遠くかけ離れた「非日常」とが、被告人の中で矛盾なく連続しており、裁判官は全く悩んだ跡もなく、被告人の有罪認定を行っているのである。
私達は、弁護士である前に、まず普通の市民生活を送っている一員として、この裁判所の「人間を見る眼」に対して、どうしようもない絶望と危機感を抱いてしまったのである。
人間は、神でない以上、誰しも些細なことから他人に憎しみを抱く存在である。「意地悪をされた」とか「無視された」とか「傷つけられた」とかいった些細なことが原因で、不登校になったり、会社を辞めたり、家族においては夫婦喧嘩の種になる。こうした人間関係の中で、相手を好きになったり憎んだりすることの連続が我々の日常生活である。男女の恋愛においては尚更、こうしたことが繰り返されるものであり、「憎しみ」は人間にとって恋愛と同じような普遍的な感情でもある。この「憎しみ」の感情が「殺意」に変わり、現実の殺害行動にまで至るには、そこに「大きな壁」がある。
直木賞を受賞した売れっ子作家の角田光代氏は、現代の若い男女の愛と憎しみを描いて定評のある作家であるが、「おやすみ、こわい夢をみないように」(新潮社刊)の発刊に当たって、「憎しみと殺意の大きなすき間」について次のように語っている(毎日新聞 平成18年3月5日朝刊)。
「『憎しみの感情があふれて殺意に変わり、行動を起こす瞬間』を知りたいと思って文芸誌での連載を始めた。だが、どうしても行動を起こすところに行き着けない。『人を殺す何か』は今もわからない。しかし、殺意を押しとどめているのは日常の分厚さなのだ、と気づいた。(中略)『いくら悪意を募らせても、いくら日常を突き抜けて、(殺人という)非日常に行きたくても、間にものすごく大きなすき間がある。憎しみと殺意は連続した線じゃない。日常はそう簡単には飛び越えられないんですよ。殺意にならない憎しみは誰もが持っている、恋愛と同じ普遍的な感情です。』」 角田氏も言うように、憎しみと殺意とは連続線上にはないのである。そこには大きな障壁が横たわっている。だからこそ、男女の愛と憎しみ、それが殺意にどのようにして変わっていくのかが、文学や映画・演劇の永遠のテーマなのである。同じく角田氏は、上記の単行本の「帯」に次の文章を綴っている。
「人を憎む気持ちは誰にでもあるはず。でも、人を殺したいとまで思う強い気持ちは何だろう?死ねばいい、とつぶやく言葉に詰まっているのは憎しみだけれど、人を殺すのは憎しみではない、もっとべつの何かだ。憎しみのように尖っていない、もっと鈍い、もっと無知な、もっと麻痺した何かだ。」
ところが、一審や原審判決は、被告人の「悪意と憎しみの感情」を認定した後、いとも簡単に「殺害の動機」を認定し、そして一言の説明も無く、安直に「殺意」を認定し、そして被告人が「殺意」及び「死体損壊」の犯罪を行ったという事実認定を行ったのである。原判決は、こうした安直な殺害の動機や殺意の認定をカバーするために、「被告人がとった行動は合理的に判断して『不可解』、『不自然』、『不合理』であるから、『虚偽』である」として、被告の人間性に対するマイナス評価を並べ立て、懲役16年という「有罪判決」を下しているものである。
こうした裁判官の「人間に対する眼」に基づいた事実認定が、今後もまかりとおっていくとしたなら、裁判員制度が導入されて、ごく普通の市民が事実認定を行うことになった時、一体、どのようなことになるのであろうか。「動機無き殺人」が増えている現在、裁判所が本件のように捜査の欠陥を追認して安直な事実認定を行うことが通例となってしまうことにでもなれば、刑事司法の将来は一体どうなってしまうのであろうか。「情況証拠による事実認定」の事件が増え始めている。このような裁判において、司法がずさんな捜査を追認し、厳格な証拠の評価や推論の合理性を放棄した事実認定を行うのであるならば、刑事裁判に対する信頼は大きく失われるに違いない。 貴裁判所が、本件に対する適正な判断をなされ、新しい時代の刑事司法の模範となられることを切に望むものである。(平成18年3月6日 伊東 秀子 記)







関連サイト

シリーズ一括読み
http://www.bnn-s.com/bnns/series/seriesList.jsp?series_cd=13






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