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ジャーナリスト・惠谷 治「独裁者の秘密を徹底検証ドキュメンタリー金正日」
独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第26回


03月17日(金) 00時00分
文:惠谷 治 



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工作隊がパルチザンを帰順させた際の記念写真。野副討伐隊が作成した『3省治安粛正工作記念写真帳』にある討伐隊のスナップ。「討伐隊の猛烈果敢しかも執拗なる長追を勢子とすれば、工作隊はその網番とす。従って、両者の呼吸一致するとき帰順工作は進展する。写真は共匪岳団帰順時の撮影にして、討伐開始以来、帰順投降せるもの1100余名なり」というキャプションがある
 第1部 金正日の出生の秘密を暴く

 第2章 ソ連逃避行の途上で父母は電撃結婚

 コミンテルンからの連絡という創作

 「1940年8月、安図縣四方林子でのことである。当時、金日成同志は〔金永国同志をはじめとする〕出版所の活動家と護衛中隊だけをひきいてそこにとどまっていた。ある日、宿営地を移動させるため〔馬塘溝密営にあった〕出版所の活動家たちに荷作りするよう指示し、みずから先に道の方へ歩いていった。〈略〉護衛中隊の隊員たちは、金日成同志と出版所の荷物を背負った同志たちを掩護しながら、あやうく敵の包囲網を突破した」(林春秋「革命的出版物にたいする金日成同志の指導」『朝鮮人民の自由と解放』54頁)

 金日成が安図縣馬塘溝の密営にあった出版所を閉鎖したという事実は、「小部隊活動」とは関係がなく、この時点ではすでに金日成は密かに、ソ連領への脱出を決意していたと考えられる。とはいえ、まだしばらくの間は、一帯で遊撃活動を展開していた。

 抗日匪討伐を推進していた関東軍司令部は、『満洲共産抗日運動概況』という秘密文書を発行していた。しかし、もはや日本には原本は存在せず、1986年に吉林省の档案館(公文書資料館)が発行した中国語翻訳『東北抗日運動概況』によって、その貴重な内容を知ることができる。『東北抗日運動概況』は、1940年8月から9月にかけての「第2方面軍長金日成匪」に関する情報を、次のように記している。

 8月「金日成匪160名。本月上旬、主力は延吉縣内の京図線〔鉄道〕を越えたが、中旬には再び南下。依然として、安図、延吉、敦化の3縣が交わる縣境一帯で、数隊が横行しており、糧秣工作に専念している」

 9月「金日成匪120名。依然として上述の地区に数個団(連隊)か分散潜伏し、行動は不活発」

 伝記『金正淑伝』には、当時の金貞淑の動静について、次のように書いている。

 「1940年9月、〔金〕正淑は〔金日成〕将軍にしたがって間白山密営に到着した。それは白頭山の主峰と間白山の間につくられた密営で、広い盆地に展開されていた」(『金正淑伝』174頁)

 間白山(標高2162m)は白頭山の南方、つまり朝鮮領内にあり、この時期に金日成が朝鮮国内に侵入した事実はなく、「白頭山の主峰と間白山の間につくられた密営」など存在しない。にもかかわらず、こうした話を捏造したのは、金正日が生まれたのがその密営だとする伏線と考えられる。

 当時、日本は延吉縣の龍井に日本総領事館を設置し、各地に領事館あるいは分館を開設していた。各領事館も抗日パルチザンの動静を注視しており、琿春領事館においても秘密報告書が作成されていた。琿春領事館の木内忠雄領事による10月9日付の「機密230号」は、当時の金日成の行動を次のように記録している。

 「客月来、杳として不明なりし匪首金日成は西進を装い部隊を分散、自己は手兵約10を率い安和県境五道楊岔地区1341高地に潜入、爾来、不気味なる沈黙を続け、討伐隊の鋭鋒を避けつつありたるが、最近帰順匪らの言により、その所在判明し、各討伐隊はこれが討滅を期し、目下包囲態勢圧縮中なり。これより先、逸早く討伐隊の行動を察知せる金日成は北転を策し、既に安図、延吉、敦化県境方面北上を開始、討伐網脱出に狂奔中なるやごとし」

 金日成は10月中旬、コミンテルンから2度目の連絡があったとして、次のように書いている。「その連絡を受けたとき、わたしはまず先発隊を派遣して向こうの状況を具体的に調べさせる一方、従来の方針どおり東北地方での越冬の準備を完了しておくことにしました」(『世紀とともに』第8巻・平壌版75頁)

 金日成回顧録によれば、1939年の秋、コミンテルンから「コミンテルンの招集する満洲パルチザン会議に,朝鮮人民革命軍と第1路軍の代表を派遣してほしい」という最初の連絡があったとして、その根拠に琿春領事館の木内領事による7月26日付の「機密188号」の内容を紹介している。

 木内領事の機密報告には、「康徳6年(1939年)11月11日、〈略〉共匪と同一の服装をなし、拳銃を携帯せる露西亜人8名が鮮人2名の通訳と共に金日成を来訪」と記録されており、ロシア人が金日成のもとを訪れたのは事実のようである。しかし、1939年当時にコミンテルンが「満洲パルチザン会議」を招集した事実はなく、既述したように第1次ハバロフスク会議は第2路軍と第3路軍がソ連領に入って協議した結果を、ソ連側に承認してもらったもので、コミンテルンが招集したものではない。

 金日成はソ連に向かった理由の伏線として、日本側の機密資料を利用してコミンテルンから使者きたとしているが、それは事実ではなく捏造である。(つづく)







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