|
独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第35回


 
 |



| 野副討伐隊の戦果と間島省を紹介するイラスト。1941年3月19日、野副討伐隊は金日成を含む第1路軍の主力はソ連に逃亡したとして、討伐隊を解散した。作戦完了後に作成しされた『吉林・通化・間島3省治安粛正工作記念写真帳』には、討伐隊がパルチザン幹部を射殺、逮捕した日付や位置を示すカラーイラストが付いている。戦果とともに間島省の地理案内を兼ねた鳥瞰図ふうのイラストは、現代でも通用するデザイン感覚である |
|
|
 |
第1部 金正日の出生の秘密を暴く
第3章 1941年に生まれた金日成の子供
金日成夫婦に長女がいたという証言 金日成の入ソ時期について、長々と詳細に検討したのは、金日成に同行していた新妻である金貞淑(当時22歳)の体調が気にかかっているからである。
私は金正日の出生の秘密を探るため、1993年にインタビューした金貞淑の戦友である女性隊員の金善にさらに話を聞くため、1995年に再度延辺を訪れ、接触を試みた。しかし、北朝鮮当局からの圧力があったようで、私とインタビューすることはできないと断られた。そのため、私は知人を通じて延辺の女性ジャーナリストに、密かに金善にインタビューしてくれるよう依頼した。彼女から届いた書面による回答には、これまでにまったく知られていない事実が書かれていた。
金善ハルモニ(おばあさん)の話では、金日成と金貞淑は1940年の秋にソ連に行ったということです。ハルモニはその年の11月にソ連に行きました。金貞淑とは数カ月一緒にいましたが、ハルモニは1941年の冬に娘を産み、金貞淑も娘を産みました。そして、ハルモニは金貞淑の娘にも乳を飲ませましたが、のちに消化不良で死んでしまいました。金正日がいつ、どこで生まれたかは知らないということです」
この回答は、金日成と金貞淑の間には、長男の金正日が誕生する以前に、長女が生まれていたという「新事実」を明らかにしていた。長女が誕生した年月日は不明だが、「41年の冬」ということから推測すれば、1941年の1月か2月、あるいは12月ということになる。
金善証言による金日成の長女が、1941年の1月か2月に生まれたのだとすれば、金日成と金貞淑は慌ただしい逃避行の道中で、唐突な結婚式を挙げた理由は明白になる。金貞淑は妊娠7カ月前後の躰で、困難な逃避行をおこなっていたかもしれないのだ。
しかし、金善証言を検証するために、もう少し金日成の動向を詳細にみてみよう。
「必要な手続きを終えたわたしは、同行した戦友たちと別れ、ソ連軍将校に案内されてハバロフスクへ向かいました」(『世紀とともに』第8巻・平壌版84頁)
ヴォロシロフで自由の身となった金日成は、部下たちがいるポシエトには寄らずに、ソ連極東軍と中共東北抗日連軍との合同会議(第2次ハバロフスク会議)に参加するため、ソ連極東軍司令部および第2独立赤旗軍司令部があるハバロフスクに、列車で向かった。
「ハバロフスクに到着してみると、雪が膝にくるほど積もり、ひどい寒さでした。密林の中で戦ってきたわたしの目には、すべてが神秘めいたものに見えました。〈略〉当時、この都市は20余万の人口を擁していました。〈略〉ハバロフスクに到着したその日、宿所で徐哲〔第1路軍軍医処長〕と対面し、翌日は安吉〔第3方面軍第14連隊政治委員〕に会いました」(『世紀とともに』第8巻・平壌版112頁)
この時点で、中共東北抗日連軍第1路軍は、総司令の楊靖宇がすでに)に戦死 (1940年2月23日)、副司令兼政治部主任の魏拯民は重病で身動きがとれず、参謀の方振声は1940年2月15日に逮捕され、軍需処長の全光(呉成崙)は1941年1月29日に討伐隊に投降・帰順、第1方面軍指揮の曹亜範は1940年4月6日に死亡、第3方面軍指揮の陳翰章も1カ月ほど前(1940年12月6日)に戦死していた。
満洲において金日成たちを追い詰めていた野副討伐隊は、1940年の秋季作戦において、通信連絡のためのコードネームを作成し、魏拯民を「ノロ鹿」、韓仁和は「ウシ」、全光は「ネコ」、金日成は「トラ」、陳翰章は「クマ」、崔賢は「シシ」、安吉は「ウマ」としていた。このうち、魏拯民とともに第1路軍参謀兼警衛旅団政治委員の韓仁和がまだ満洲に残っていたが、第2方面軍指揮だった金日成(当時28歳)は、入ソした第1路軍の最上級指揮官として会議に臨むことになったのだった。
「わたしは会議が開かれる前に、〔北満省委書記の〕金策と〔第2路軍参謀長の〕崔庸健と〔初めての〕感激的な対面を果たし、久方ぶりに周保中とも再会しました。安吉と徐哲は、会議が終わってハバロフスクを発つときまで、わたしと同じ宿所に泊まりました」(『世紀とともに』第8巻・平壌版114頁)
1941年1月末から開かれた第2次ハバロフスク会議は、王新林として知られていた中ソ連絡員のワシリイ・リュシェンコ少将の主宰で開かれ、中共東北抗日連軍側からは、北満代表第3路軍総司令部の幹部、吉東(東満)代表の第2路軍総司令部の幹部、そして南満代表として金日成、安吉、徐哲たちが参加した。
会議は、ソ連極東軍が抗日連軍による満洲でのパルチザン闘争を支援するのではなく、逆に遊撃戦を終息させ、抗日連軍を極東軍の偵察や諜報活動に協力させる方向で進められた。当然ながら、抗日連軍側は抵抗し、協議を重ねた結果、抗日連軍は改編されるものの存続は認められることになった。しかし、部隊の運用はソ連極東軍が握ることになり、2月10日ごろ、会議は終了した。(つづく) 






関連サイト

シリーズ一括読み
http://www.bnn-s.com/news/series_cd129.html






このページのTOPへ




|
| ■ |
当サイトは、リンクフリーです。バナーが必要な方は下のバナーをお使いください |
|