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ジャーナリスト・惠谷 治「独裁者の秘密を徹底検証ドキュメンタリー金正日」
独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第40回


04月28日(金) 00時00分
文:惠谷 治 



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北野営に創設された第88特別旅団の隊員たち。1943年10月5日、北野営(A野営)での野外演習後に撮影された第88特別旅団(東北抗日聯軍教導旅団)の隊員たち。前列左から、副旅団長パターリン(巴大林)少佐、政治委員の李兆麟少佐、旅団長夫人で政治指導員の王一知、旅団長の周保中中佐、第1大隊長の金日成大尉、副旅団長のシャルマチェンコ(什林斯基)少佐。第2列は左端を除いて、張光迪(役職階級不明)、諜報部長の馮仲雲大尉、第2大隊長の王效明大尉、第2大隊長の王明貴大尉(許亨植の後任)、彭施魯(役職階級不明)。第3排左から、楊清海、徐哲、姜信泰、金光侠、隋長青。第4列左から、安吉、朴徳山、崔勇進、陶雨峰、金京石
 第1部 金正日の出生の秘密を暴く

 第3章 1941年に生まれた金日成の子供

 北野営に創設された「第88特別旅団」

 南満省委書記兼第1路軍副総司令の魏拯民は、吉林省樺甸縣の夾皮溝密営で病床にあったが、逮捕者の供述により密営の位置をつかんだ野副討伐隊の長島工作隊は、3月8日、密営を包囲襲撃し、魏拯民は7人の部下たちとともに最期を遂げていた。享年32歳だった。現場には小銃5挺、手榴弾3発、弾薬380発、そして大量の宣伝材料が残されていたという(『東北抗日運動概況』234頁)。

 しかし、金日成は『世紀とともに』第8巻・平壌版100頁において、「魏拯民を戦闘の場で射殺したという敵側の資料は事実無根です。射殺されたのではなく病死したのです」と書いて、魏拯民の部下だった郭池山の証言を紹介している。

 第1路軍第3方面軍第15連隊の漢人隊員だった呂英俊は、次のように証言している。

 「魏拯民の死因は病死だった。1941年3月頃、少数の同志が彼の死亡を最後まで見取り、護衛兵が死体を埋葬したんだ。そして、密林を出たのだが、それを日本軍に密告した奴がいて、日本軍がそこに来て、死体を掘り出して、頭に銃弾を打ち込んで、首を切り落として、魏拯民は討伐戦で銃殺されたと発表した。その銃弾を打ち込んだ首を写真に撮って、発表したと聞いた」(『パルチザン挽歌』237頁)

 呂英俊証言は伝聞情報であり、その事実を確認できる資料はない。

 魏拯民が死亡したのは、魏拯民の救出が検討されていた南野営での会議中のことだった。その5日後の3月13日、第1路軍参謀兼警衛旅政治委員の韓仁和が戦闘後に逮捕され、処刑された。その結果、第1路軍司令部の最高幹部は全滅し、無断で戦線を離脱し、ソ連に逃げ込んでいた金日成が、生き残った第1路軍の最高幹部に自動的になったのだった。

 満洲潜入を終えて南野営に帰還していた金日成は、9月14日、再度、満洲に向かい、間島省汪清縣まで越境進出した。そして、魏拯民の死亡を確認するなどして、2カ月後の11月12日、南野営に引き上げた。

 魏拯民の死によって、無許可で戦線を離脱した金日成の「許すことのできない誤り」に対する「相当な処罰」は執行されず、金日成の軍律違反問題は処断されることなく終った。しかし、金日成の「機会主義的性質の越境」については、ソ連においてその後もしばしば自己批判の対象になったといわれている。

 金日成が満洲潜入から帰還して1カ月ほどたった12月8日、日本軍の真珠湾奇襲により大東亜戦争が勃発した。また、最初の満洲潜入直後の4月13日には日ソ中立条約が締結され、6月22日、独ソ戦が始まると、ソ連は日本に中立条約を遵守させるため、東北抗日連軍の満洲派遣を控えるようになった。

 その結果、ソ連極東軍偵察局は東北抗日連軍をソ連籍の少数民族ナナイ人の部隊とともに特殊部隊に改編することとし、1942年7月16日、東北抗日連軍を中核とした特殊任務の国際旅団の新設が決定された。これが「第88独立歩兵旅団(第88特別旅団)」と呼ばれる秘密部隊である。抗日連軍の隊員たちは第88特別旅団において、将来の対日戦争に備え、高度な軍事訓練を受けるとともに、情報収集活動を実施することになった。東北抗日連軍側は第88特別旅団を「東北抗日連軍教導旅団」と呼んでいた。

 ハバロフスク北東70kmのヴャツコエ村にある北野営(A野営)に、第88特別旅団が創設されるのにともない、南野営(B野営)にいた金日成は6月19日に周保中に招集され、7月18日に北野営に到着した。

 第88特別旅団司令部は、周保中が旅団長、旅団政治委員に李兆麟、副旅団長はシリンスキイ少佐、参謀長はシャルマチェンコ少佐、副参謀長に崔庸健、政治部主任はセリョキン少佐という構成になった。旅団は4個大隊で編成され、第1大隊は金日成、第2大隊は王効明、第3大隊は許亨植、第4大隊は柴世栄が、それぞれ大隊長に任命された。そして、7月21日付で抗日連軍の隊員たちには赤軍の階級が与えられ、周保中は中佐、李兆麟は少佐、金日成をはじめとする大隊長は大尉とされた。

 こうした事実が具体的に明らかになったのは、1990年以後のことである。

 金日成が北野営に移動したのちも、第1支隊と第5支隊の隊員たちは南野営に留まっており、第88特別旅団に合流するため南野営から全員が移動したのは、1942年10月だったことを、私は延辺の歴史家たちから聞いたが、それを示す文献資料は見出せないでいる。金貞淑もこの時点で、戦友たちと共に北野営に向かったものと思われる。

 であるとすれば、1942年2月生まれといわれる金正日はすでに南野営で誕生していることになり、金貞淑は幼い金正日を抱いて移動したに違いない。(つづく)







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