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ジャーナリスト・惠谷 治「独裁者の秘密を徹底検証ドキュメンタリー金正日」
独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第41回


05月01日(月) 00時00分
文:惠谷 治 



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北野営(ヴャツコエ村)の第88特別旅団の兵舎(著者撮影)。ハバロフスク北東70kmのヴャツコエ村に残る北野営(A野営) 跡を私が訪れたのは、1991年8月のソ連における「8月クーデター」を取材して帰り道の9月初旬だった。当時はハバロフスクから40km以上離れるときにはKGBの許可が必要だった時代だったが、私は許可なしで現地に入ったが、大きな問題にはならなかった。ヴャツコエ村には金日成を記憶している村人たちから話を聞き、かつては食糧庫だったという当時のまま残っていた建物などを見て回った。敷地内には名前を刻まれていない4人の墓碑もあった
 第1部 金正日の出生の秘密を暴く

 第3章 1941年に生まれた金日成の子供

 手記内容を訂正した“金正日の乳母”

 1990年の秋、抗日連軍第3路軍第3支隊の女性隊員だった李在徳(北京在住)は『野営生活の回顧録』という手記を発表し、次のような内容を明らかにした。

 「1941年11月の冬。私たちの部隊がソ連のハバロフスクにあるブヤツク野営〔北野営〕に到着したとき、そこにいた女性戦士が私のところに集まってきた。金正淑同志が私の手を取り『戦友が増えましたね』という愛情のこもった言葉が、いまだに記憶に残っている。金正淑同志は私より2つ年下だったが、本当の姉妹のように直ぐに仲良くなった。当時、私は23歳で、于保合(当時は小隊長)と結婚していた」(1991年10月4日付の韓国の中央日報の抄訳)

 李在徳は手記のなかで、金貞淑は短髪で純朴そうな丸顔だったが、体は細く小さくて、虚弱そうというのが第一印象だったと述べている。李在徳が北野営に到着したとき、そこには軍官(将校)用の丸太小屋が数棟あるだけで、ほとんどの隊員はテント生活をしており、テントは男性用と女性用とに分けられていた。金日成は軍官にもかかわらず、夫妻は別々のテントにいた。1942年初頭、李在徳は満洲に派遣され、4月に野営に戻ってくると、金貞淑はすでに息子を出産しており、ロシア語で「ユーラ」と呼ばれていたという。

 ユーラは「ユーリイ」あるいは「グレゴリイ」の愛称である。当時、チョーアという18歳の少女がナチス・ドイツ軍の占領地内で地下活動をおこなっていた際に、ドイツ軍に逮捕されたという事件が話題になっており、英雄視された少女の弟の名前がユーラだった。そのため、金正日のロシア名はチョーアの弟の名前にあやかって、「ユーラ」と命名されたという。

 李在徳手記は、金正日の出生についての初めての具体的な事実として注目を浴びた。

 李在徳も7月に娘を出産し、漢名を于華、ソ連名はニーナと名付けられた。野営内では、1カ月を過ぎると子供を託児所にあずけるという規則があり、李在徳が託児所にいるニーナに乳を飲ませに行くと、体の弱い金貞淑の母乳が思うように出ないため、金正日が泣いており、自分の乳を飲ませるようになった。李在徳は金正日が乳離れするまで、授乳を続けたという。

 この手記によって、李在徳は“金正日の乳母”として知られるようになったのである。

 李在徳は、金正日は北朝鮮が発表している白頭山ではなく、噂されていたようにソ連のハバロフスク (北野営)で生まれたことを確認する証言者となった。当時、私自身も李在徳手記に従い、金正日の出生地は北野営であると信じて、1991年9月、北野営を訪れ現地取材をして、拙著『金日成の真実』のなかで、金正日の生誕地は「ハバロフスク近郊の北野営」であると書いた。

 李在徳は「抗日革命闘争縁故者」として、金日成の葬儀にも参列しているが、前年の1993年7月に平壌で開催された朝鮮戦争勝利40周年の祝賀行事にも招待され、金日成と会見していた。祝賀行事に参加後、李在徳は中国誌『婦女生活』(1994年3月号)に「情系故土(故国への想い)」という祖国訪問記を寄稿した。

 「1943年、私の長女が抗日連軍のA野営(ソ連)で生まれた。最も困難な戦いが続いた時期で、飢餓と疫病が私たちを脅かしていたが、そうしたなかで金日成同志が食料などを送ってくれたことが忘れられない。金正淑同志は母乳不足のため、次男に乳を上げることができなかった。そこで彼女より乳が出る私が、娘とともに将軍の次男に乳をあげていた」

 李在徳は新たな手記を書いて、『野営生活の回顧録』の記述内容を訂正し、授乳したのは金正日ではなく弟だったことを明確にしている。

 李在徳が最初の手記で「42年4月に野営に戻った」と書いた年月が記憶違いだったことは、李在徳の夫である于保合が書いた手記「在抗聯后期的五年里」(『黒龍江党史資料』第10集)や黒龍江省革命博物館の資料「抗聯整訓期間派遣遣回東北的小部隊」などで確認することができる。于保合・李在徳夫妻が所属していた「王効明小隊」が満洲に派遣されたのは1941年7月で、潜伏活動を終え北野営に帰還したのは2年後の1943年4月のことだった。李在徳が長女ニーナを産んだのは1943年7月であり、“金正日の乳母”になることなど不可能であり、李在徳授乳したのは金正日の弟だったのである。

 にもかかわらず、李在徳の訂正手記はほとんど紹介されず、今日では金正日の生誕地はロシア極東部のハバロフスクという誤った説が、世界的に定着している。(つづく)







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