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独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第42回


 
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| ソ連極東軍と南北にあった抗日連軍野営地(原図製作・惠谷治、デザイン・鍵本博子) |
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第1部 金正日の出生の秘密を暴く
第3章 1941年に生まれた金日成の子供
弟の出産と混同したハバロフスク誕生説 ソ連極東軍の軍事顧問で、朝鮮語通訳を兼務していたというグレゴリイ・クジミン退役大佐は、1992年に日本のメディアに対して次のように証言した。
「まさにこのビャッツコエ村で、金日成の息子で、その現在の後継者である金正日が生まれたのである。お産に立ち会ったのは私の知人で、旅団付き軍医のニキーチェンコだった。金日成にはもう一人、上の息子がいた。2人の息子には便宜上、ロシア名が付けられていた。弟の金正日はユーラ、兄はシューラと呼ばれていた。シューラは遊んでいて、井戸に落ち、溺れ死んだ」(「金日成の横顔」『This is 読売』1992年2月号)
旅団付きの軍医が出産に立ち会ったということは、第88特別旅団が創設された1942年7月以降のことであり、クジミン証言は金正日の誕生のことではないことは明らかである。クジミン証言は兄弟関係を勘違いしているところからみても、ニキチェンコ軍医が立ち会った出産は、弟の「シューラ」だったことは疑いない。
また、韓国の南北問題研究所が1993年に発行した『金正日とはどんな人物か』のなかで、著者の李基奉氏は金正日の出生について、クジミン証言とは別の情報源によって次のように具体的に書いている。
「〔金正日の出産は〕難産だった。〔第88特別旅団の〕医務室のソ連軍の外科軍医らは産婦人科の知識がなかった。〈略〉切羽詰まってワツコエ村の無免許獣医であるロシア人の老女、ワーリャ(65歳)がソリで呼ばれ、ようやく医務室から産声が上がった。男子だった」(1993年5月25日付産経新聞朝刊の抄訳)
この記述も旅団付き軍医が登場することや、李在徳の最初の手記内容を紹介していることなどから、弟の出産であることは間違いない。
1991年に韓国に亡命した外交官の高英煥氏は、著書『亡命高官の見た金正日』のなかで、金正日の誕生について次のように記述している。
「1942年2月16日の朝、この第88旅団駐屯地でソ連軍医官と村の産婆だったウアルラの手伝いを受けて、金日成の最初の妻であった金正淑は長男・金正日を産んだ。このとき、金正日はロシアの名づけ方にしたがって『ユーラ』と名づけられた。『ユーラ』というのは『アレクサンドル』というロシア名の愛称であり、また、大王という意味もある」
この記述に登場する助産婦の「ウアルラ」という名前は、ロシア名のワーリャをハングル表記したものを、機械的に日本語訳にした誤訳である。韓国では、ワーリャという老女が金正日をとりあげたという架空話が広まっているようであるが、その出所は不明である。高英煥氏はロシア語の知識不足から、アレクサンドルの愛称を「ユーラ」としているが、実際は「シューラ」であり、金正日の弟のロシア名である。
金貞淑の伝記『白あんずの花のように』では、当然ながら北朝鮮の公式発表通りに「白頭山の小白水谷根拠地」で金正日は生まれたという架空話が書かれているが、次のように具体的な助産婦の名前を書いている点が注目される。
「出産の準備で女子隊員たちは大わらわであった。生まれた男児が元気な産声をあげると、わっと歓声をあげて小躍りした。産婆役をつとめたのは、〔申〕桂順オモニであった。かつて金正淑が富岩上ノ村の根拠地へたどり着いたとき、健康をとり戻すまで世話をしたあの看護婦である」
著者の成律子氏は北朝鮮での取材で、金正日をとりあげた助産婦が「申桂順」だったと聞いたのだと思われるが、申桂順という女性隊員が南野営、あるいは北野営にいたという事実は、今のところ確認することはできない。
金正日のハバロフスク(北野営)誕生説は、金日成が第88特別旅団の大尉だったという新事実が確認された直後に噴出したが、南野営との関係を知らないまま北野営に注目し、また、金正日兄弟の誕生を混同した結果によるものだった。(つづく) 






関連サイト

シリーズ一括読み
http://www.bnn-s.com/news/series_cd129.html






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