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独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第43回


 
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| 南野営で撮影されたと思われる抗日連軍の女性隊員たち(撮影年月不明)。左から、李英淑、金チョルホ(崔賢夫人)、金貞淑(金日成夫人)、黄順姫。『世紀とともに』第8巻に掲載された下の写真を見れば、どのような意図で写真が修正されたのかが分かるだろう |
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第1部 金正日の出生の秘密を暴く
第3章 1941年に生まれた金日成の子供
金貞淑は「過期妊娠」で出産したのか 金貞淑は金日成とともに1940年11月に琿春縣から入ソし(金日成と別れて先んじて10月に東寧縣から入ソした可能性もある)、1941年1月中旬以後は南野営で生活しており、3月1日に数カ月ぶりに再会した金日成と記念撮影している。そして、約1カ月後の1941年4月9日、金日成は魏拯民を救出するため満洲に出発し、金貞淑とは別行動となった。
ということは、金正日の出生にある重大な疑問が湧いてくる。
金正日の公式的な誕生日が1942年2月16日であり、母親である金貞淑が1941年4月9日以後、金日成と離れ離れになっていたということは、金貞淑の妊娠期間は300日以上という計算になる。4月9日が仮に旧暦表記(新暦の5月4日)であれば、通常の妊娠期間は280日前後なので、かろうじて正常妊娠となるが、当時の中国共産党は新暦を使用しており、ソ連共産党も同様だった。だとすれば、金貞淑は「過期妊娠」だったはずで、胎盤機能不全などになる確率も高く、出産は大変だったと思われる。
すでに紹介した韓国の北朝鮮問題研究家の李基奉氏は、金正日の出産は「難産」だったと書いているが、この出産は金正日ではなく弟だったことは、すでに検証済みである。今のところ、金正日の出産が難産だったという情報はない。ちなみに、金貞淑はその後、前置胎盤による出産の際に、大量出血で死亡している。
在日朝鮮人作家の金賛汀氏は、金貞淑の戦友で第8連隊の女性隊員だった金善から、次のような証言を得ている。
「南野営の女性隊員のうち、4人が妊娠し、出産しました。お産は兵営内でなく、市街地のソ連人の病院でした。その病院は、野営地から1時間程行ったところにありました。私が出産したのは1941年12月頃だったと思います。出産時には隊員は誰も付き添っていず、ソ連人の医師と看護婦だけでした。野営では、4人の女性が出産しましたがそのうちの1人が金正淑でした」(『パルチザン挽歌』78頁)
金善は、南野営には9人ほどの女性隊員がいて、出産したのは金貞淑、金明花、金明淑、そして自分の4人だったと述べている。また、金善は金賛汀氏に対し、次のような興味深い話をしている。
「子供を産んだ後、40日間は、乳児と一緒でしたが、その後は、託児所で育てるといって、ソ連人が連れて行きました。私たちは野営から外に出られませんでしたから、その託児所に赤ん坊に会いに行くこともできませんでした。そして、1942年の8月頃、私は南野営からハバロフスク近郊の国営農場に送られる直前に幹部から子供は託児所で死亡したと告げられました。その時、4人の子供たちは全員、死亡したと言われたのですが、それを自分では確認させてもらえず、告げられたことを信じるしかありませんでした」(『パルチザン挽歌』78頁)
私が間接的インタビューで金善から得た情報によれば、このとき金貞淑が産んでいたのは娘で、「金貞淑の娘にも乳を飲ませたが、のちに消化不良で死んでしまった」ということだった。その内容は「幹部から〔金貞淑の娘を含め〕4人の子供たちは全員死亡したと告げられた」という上記の証言と一致する。
しかし、金善の間接証言によれば「私は1940年11月にソ連に入り、金貞淑とは数カ月一緒にいて、1941年の冬に娘を産み、金貞淑も娘を産んだ」となっている。自分の娘の誕生日について、金善は金賛汀氏に対し「1941年12月頃だったと思う」と述べているが、間接証言では「1941年の冬」と曖昧にしている。金善が「金貞淑の娘に乳を飲ませていた」のだとすると、金貞淑の娘も「1941年の冬」前後に誕生したということになる。(つづく) 






関連サイト

シリーズ一括読み
http://www.bnn-s.com/news/series_cd129.html






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