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独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第46回


 
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| 金正日と同年に誕生した周保中・王一知夫妻の娘。第88特別旅団(東北抗日連軍教導旅団)の旅団長である周保中少佐と王一知夫人の間には、1941年8月8日、長女の周偉(ロシア名はカリーナ)が誕生した。中国における金日成研究の第一人者といわれる朝鮮族の歴史家で、中国共産党黒龍江省党史研究室の金宇鐘室長は、周保中の長女と金正日は同年生まれと、私に明言した。この証言により、金正日が1941年生まれであることを、最終的に確認することができた。写真は、1943年の夏にハバロフスクで撮影された周保中・王一知与夫妻と長女の周偉である |
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第1部 金正日の出生の秘密を暴く
第3章 1941年に生まれた金日成の子供
中国における金日成研究の第一人者の証言 満洲の中共抗日パルチザン闘争史をまとめた中国の公式文献ともいうべき『東北抗日聯軍闘争史』を編纂した中国黒龍江省党史研究室の金宇鐘室長は、中国における金日成研究の第一人者といわれる朝鮮族の歴史家である。私は金正日の生年を確認するために、黒龍江省のハルピンを訪れ、金宇鐘室長にインタビューした。
-----金正日が生まれたのは本当に1942年なのですか。
「間違いありません」
-----金正日の生年が確認できるような記録はありますか。
「残念ながらそうした文書はありません」
-----では、1942年と断定できる根拠はなんでしょうか。
「元パルチザンの証言から判明しています。第88旅団の周保中旅団長の夫人である王一知さんも、娘が生まれた同じ年に生まれたので間違いないと断言しました」
私は金宇鐘室長の証言を確認するために、その後に入手した周保中の『東北抗日游撃日記』を読んでみると、次のような記述を発見した。
「1941年8月8日、午前10時女主人と通訳同志が来て、入院している〔王〕一知が出産したと告げた。私は娘を得た。母子ともども無事である。子供の体重は正常で、3400グラムである」(『東北抗日游撃日記』611頁)
『東北抗日游撃日記』によって、周保中と王一知の長女である周偉(ロシア名はカリーナ)は、1941年8月8日に誕生していることが判明した。ということは、金正日も1941年生まれなのである!!
私がインタビューした1992年当時は、まだ金日成も健在で、北朝鮮との政治的関係から金宇鐘室長は真実を語ることができなかった。聡明で思慮深い金宇鐘室長は、達者な日本語でトンチ問答のような回答をすることで、私に真実を語ってくれていたのだと、今にして思う。金宇鐘室長は朝鮮族出身とはいえ、これも「中国人の智慧」だったのだろう。
金正日が1941年2月16日に生まれたのであれば、金日成と金貞淑が慌ただしい逃避行の道中で、唐突な結婚式を挙げた理由は明白になり、「過期妊娠」の疑問も氷解する。そして、金日成が上部の許可を得ずに軍律違反を承知で、安全圏であるソ連に急行した理由も納得できる。
金日成研究で知られる東京大学の和田春樹教授は、金日成の独断ソ連脱出を「非組織的、非党的行動であったが、実質的にみれば合理的な決断、行動であったと考えられる。力が弱まった時には強力な敵との闘いを回避して逃げるのは当然のことである」(『北朝鮮-遊撃隊国家の現在』43頁)と論評しているが、金日成の逃避行の最大の動機・理由は、妻(正確にはまだ恋人)の妊娠という個人的理由だった、と私は考える。
金貞淑は妊娠7カ月前後の身重の躰をかばいながら、満洲東部の山林のなかを主として夜間に歩くという困難な行軍を1カ月も続けた末に、ソ連にたどり着いたのだった。
しかし、まだ疑問が残る。
金善は私との間接インタビューで、「金正日がいつ、どこで生まれたかは知らない」が「1941年の冬に娘を産み、金貞淑も娘を産んだ」と答えていた。それは何故なのだろうか。
私が延辺を再訪したとき、金善に再インタビューを断わられたのは、北朝鮮当局からの圧力があったようだと通訳氏から聞いた。ということは、その時点で、北朝鮮当局は金善に対し「金正日には1941年生まれの姉がいた」という欺瞞情報を流すよう指示していたのかもしれない。その時点ではまだ金日成回顧録は出版されておらず、関係者も金正日が歴史をどのように改竄するか判断できず、そのような欺瞞情報を思い付いたのだろう。(つづく) 






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シリーズ一括読み
http://www.bnn-s.com/news/series_cd129.html






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