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元日本陸軍総特攻兵長・菅原茂が憤怒する「無様すぎる今の日本」 中編


 
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| 一昨年刊行した著書「戦火なき世界をめざし 特攻(ぶっとび)人生」 |
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「今の政治家は第2次世界大戦や歴史の教訓を学ぼうとしない」
元日本陸軍総特攻兵長の菅原茂(79)は、独自の平和活動を続けている。その源泉は、「生きてこそすべて」と痛感した第2次世界大戦での従軍体験。
菅原は「生きてこそすべてという思いは、私に限らず、すべての人が極限状態に陥った時に必ず思うことだ」と断言する。
岐阜県各務原の第12輸送飛行隊に所属していた菅原は、1945年3月27日、百式爆撃機「呑龍」(どんりゅう)に無線士として搭乗、台湾に向かった。その途中、広島県の呉上空を飛んでいると、敵機重爆撃中を意味する「ヒケ三」の無線が入った。すぐさま上空で米軍の「グラマン」12機に遭遇。急降下して瀬戸内海の島々を這うようにして逃げ、何とか辿り着いたのが福岡県の太刀洗飛行場だった。
隊長の指示で訪れたのは、爆撃機「飛龍」の製作所。ここでは高等女学校の生徒約50人が、はしごを架けて飛行機のリベット打ちをしていた。
「飛行兵さん、どちらに行かれるのですか」と聞かれた菅原が「台湾であります」と答えると、女学生は「甘いものが食べたいです」と言ったという。
胸中、「再び彼女たちと会うことはできない」と思った菅原だが、口から出た言葉は「台湾に行ったら砂糖の麻袋(またい)と金華糖をみやげにもってきます」だった。
その直後、空襲警報が鳴った。上空は呑龍の3倍はあるかというB29の1編隊(10機)の影。
「頭の上には、140発(1機14発)の爆弾が落下してくるのが見え、続いて8編隊のB29がやって来た。日本の戦闘機『飛燕』も来たが、B29と比べれば、カラスに立ち向かうノミのようにしか見えなかった」
爆風を浴び畑に飛ばされた菅原にしてみれば、四方八方に飛び散る爆弾の破片が自分の体に刺さらないことが不思議だった。周囲は爆弾の破片が当たり、息絶えた人ばかりだったためだ。
前編で記したように菅原は土管に入り辛くも一命を取り留めたが、空襲が終わり、土管から出て垣間見た光景はまさしく地獄だった。
「製作所は爆弾で屋根がなくなり、鉄骨だけになっていた。製作所の梁には爆風で飛ばされた人間の塊が張り付き、地面には首のもげた体から血が噴き出していた。この空襲で一体、何人が死んだのかはいまも分らないが、なぜ、こんなバカな戦争、殺し合いをするのか、と思った」
8月15日、岐阜の兵舎で玉音放送を聞いた菅原は「声にこそ出せなかったが、『これで生きることができた』と心で叫んだ。戦争に負けはしたが、父と母、兄弟のいる札幌に帰ることができると希望が湧いた。明日から爆撃はない。生きていること自体が感動だった」と述懐する。
このような体験した菅原は平然と「小泉のガキ、ブッシュのバカ野郎、ブレアの小僧」と公言する。
「自分が生きたいという思いがあれば、“敵”も当然、同じ。今の総理や閣僚は命の尊さを知らない。“互いに生き合おう”という心がない危険な輩」と指弾、イラク戦争に言及する。
「アメリカは勝手にイラクを攻撃した。それに追従したのがブレアであり、すぐに支持したのが小泉だ。アメリカは罪のないイラクの人々を殺し、家族が殺されて反撃する人々をテロリスト呼ばわりしている。イラクがアメリカに何かしたわけでもないし、大量破壊兵器も発見されなかった。アメリカは民主主義をイラクに押し付け、世界の警察ぶっているだけ。今の政治家は第2次世界大戦や歴史の教訓を学ぼうとしない」(敬称略)
以下、後編に続く。







関連サイト

前編
http://www.bnn-s.com/bnn/bnnMain?news_genre=17&news_cd=H20021023316






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