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元日本陸軍総特攻兵長・菅原茂が憤怒する「無様すぎる今の日本」 後編


 
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| 一昨年刊行した著書「戦火なき世界をめざし 特攻(ぶっとび)人生」 |
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冷戦中のソ連に渡航、「不戦の誓い」を調印。
1945年3月27日、福岡県の太刀洗飛行場にいた日本陸軍総特攻飛行兵長・菅原茂(79)は、米軍機「B29」の猛爆撃を受けた。
この時、上空に姿を現したのは8編隊計80機。各機に搭載されていた250キロ爆弾は、「1発で5階建てビルを粉砕させる」(菅原)ほどの威力。1機に14発積まれた爆弾計1,120発が空から降ってきた。菅原は辛くも土管に逃れ一命を取り留めた。
しかし、その菅原に“最期”の命令が下された。沖縄の米軍艦船に百式爆撃機「呑龍」(どんりゅう)ごと突っ込むという総特攻だ。決行日は8月17日。
幸いにして、8月15日、玉音放送が流れた。
「これで生きられる。助かった。明日から爆撃はない。生きていること自体が感動だった」と敗戦をかみしめた。しかし、胸中には「天皇陛下も上官も助けに来ない」との思いもよぎった。
「天皇陛下と御国のために鬼畜米英を撃滅し、東洋平和を守らなければならない」と考えた軍国少年の菅原が、平和の大切さと戦争の悲惨さを痛感した瞬間だった。戦地で九死に一生を得た菅原は「生きてこそすべて」ということを痛感した。平和活動を通じて、必要なことは“生き合おうの心を持て”だと力説する。
以来、菅原は戦争体験を語り、独力で平和運動を続けている。
日本で「ソ連脅威論」が渦巻く中、菅原は「日ソ不戦の誓い」の調印を在札幌ソ連総領事館に申し入れ、同国に招待された。モスクワで「プラウダ」や「イズベスチャ」の取材を受けた菅原は、レニングラード(現・サンクトペテルブルク)のピスカリョフ墓地で、3,000人の市民が見守る中、戦没者に献花。終戦記念日の8月15日、体験者で組織されるソ連の「戦争ベテラン委員会」と不戦の誓いに調印した。
続いて87年、菅原は10人の隊員で編成される「日ソ友好平和バイク隊」を結成、稚内からサハリン(旧・樺太)のホルムスク(真岡)に向かった。日本のバイク10台に、地元・サハリンのバイク10台が加わり、沿道は歓迎する人々がはためかす日ソ両国の国旗で埋め尽くされた。
初日に訪れたユジノサハリンスク(豊原)で熱烈な歓迎を受けたバイク隊は、北上してドーリンスク(落合)に向かった。
「ここをバイクで走った時、市民3,000人が歓迎してくれた。しかし、ドーリンスクの市長からは、『菅原さんがバイク隊で平和交流に尽力されているのに、昨日から北海道では日米軍事演習が始まった』とも言われた。私がソ連と交流していることに対し、『菅原さんはソ連に利用されているんじゃないか』といぶかる人もいたが、ソ連の人々は本当に平和を願っていることを思い知らされた」
同年、菅原は平和活動を称えられ、ソ連政府から平和友好功労賞を贈られた。
菅原が「日ソ不戦の誓い」調印のため、モスクワに向かう途中、ハバロフスクを訪れた時のこと。
「事故で乗っていた列車が7時間停まってしまった。向側に停まっていた列車には北朝鮮の人が大勢乗っていたが、ニコリともしない。私が列車に行くと北朝鮮の人は列車から降りてきて、ニコニコしながら握手攻めにあった。私は日ソ不戦の誓いのたすきを掛けており、その日本語を呼んだためだ。ここでも北朝鮮の人々が平和を求めていることが分った」
「金正日に問題があることは確かだが、北朝鮮は、朝日関係が対決局面に入ったとまで言っている。それでも日本政府は北を挑発し続け、追い込んでいる。そういう姿勢や言葉が日本を狙われる原因にもなっている。政治家からは平和のために努力しようという言葉は出てこない」
「私が小泉をガキと呼ぶのは、、エルビス・プレスリーの家を訪れ、サングラスをかけてモノマネまでして、はしゃいでいるためだ。あまりにも情けないし、恥ずかしい。戦後60年を経て、私がまだ平和を訴えなければならないほど、今の日本はひどいし、政治家には理念がない」(敬称略)







| 「日ソ友好平和バイク隊」の活動を報じる「ソビエツキ―サハリン紙」 |
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| 現地の子どもを自身の50CCバイクに乗せる菅原茂氏 |
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関連サイト

前編
http://www.bnn-s.com/bnn/bnnMain?news_genre=17&news_cd=H20021023316

中編
http://www.bnn-s.com/bnn/bnnMain?news_genre=17&news_cd=H20021023329






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