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骨折り得


 
昨日、人生六度目の骨折をしていることが判明した。
骨折は厄介なものと思われかねないが、存外の発見や教訓があることも確かなのだ。
最初は小学生の時だった。学校の階段の一番上(十三段目)から飛び降りたが失敗、足の甲を負傷した。その翌日、母に連れられ、産婦人科に行った。その日は日曜日だったため、自宅の近所では産婦人科しか開いていなかったのだ。この時、レントゲンを撮るが「骨には異常なし」とのこと。安心して帰宅した。
医者の「異常なし」を信じて一週間ほど通学しても、毎回、足が痛い。怪訝に思い、別の病院に言ってレントゲン撮影をすると、足の甲が折れていた。以来、足のギプスが取れるまで、ボブスレーに乗り、雪道を母に引っ張ってもらい通学した。元来、体毛が濃いとは言えない俺だが、ギプスを外した脛は毛むくじゃらになっていた。
教訓其の一 毛のないところに毛は生える
次は中学生時代。友だち四人と札幌のテイネハイランドにスキーに行った時のことだ。このスキー場は比較的斜面がきつく、何度も転倒する。転倒して雪上に横たわっていた際、上からほかのスキーヤーが滑って来て俺の手をひき逃げしていった。グローブを履いていたため、スキーのエッジで手を切ることはなかったが、右手親指に痛みを感じた。痛み具合からすれば、すぐにでも病院に行かなければならないところだが、そうもできない事情があった。
スキーに来た俺たちは全員リフトの一日券を買っていたのだ。値段は確か、2,800円ほど。中学生のガキにしてみれば、なけなしの金をはたいて買ったリフト券だった。
しかも四人のうちの一人Sは、ビニジャンを着てスキーに来た。ざっと三十年近くも前とはいえ、スキー場には、スキーウェアを着て行くのが世の常。ところがSはスキーウェアも革ジャンもなく、革ジャンを模したビニジャンにジーンズを履いてきたのだった。ところどころに雪が付着したSのジーンズは、カチカチに凍っていた。
「右手親指が折れている」と確信した俺は、リフト券とSの心意気に負け、途中で帰ることができず、片手だけストックを使って滑った。寒さのせいか、あるいはSのジーンズの凍結具合に感心したせいか、指の痛さは薄れていた。
ハイランドでのスキーから一カ月後、病院に行くと、医者はレントゲン写真を説明しながら、「親指の骨はもうくっ付いているよ」と教えてくれた。幸い、現在まで右手親指に不具合はない。
教訓其の二 漢は颯爽とビニジャンを着て滑るべし
次なる骨折は高校三年の体育の授業で起こった。この時、蹴上がりの試験があり、何とかパスした俺は、鉄棒で遊んでいた。鉄棒はジャンプしなければ届かない高さで、下にはマットが敷いてあったが、体を大きく振りすぎた俺は、手を滑らせてマットの外まで飛んで行き、頭から体育館の床に落ちた。この時、両足は天井方向を向き、左手は頭と一緒に手首を曲げたまま床を直撃した。
起き上がってみると、左手首が変形している。手首の先にある掌は、本来あるべきところではなく、あらぬ方向に曲がっていた。これが三度目の骨折、以前の時とは違った。痛さもさることながら吐き気がするのである。
すぐに病院に行った。医者は鉤状に曲がった俺の手を持って「痛いけど、我慢しなさい。いいかい、引っ張るよ!」と言った。医者の顔を窺うと緊張した様子、荒療治が待っていることだけは理解できた。
「バリリリッッッ」
屈曲していた右手首は、轟音の後、まっすぐに伸びた。左腕は尺骨と檮骨(とうこつ)の二本折れていたが、腕が一直線に伸びた心地よさは筆舌に尽くし難いものだった。無理に表現すれば、こんな具合になるだろう。腹が下る寸前の状況で、ようやくトイレにたどり着いた時。あるいはトイレが空いておらず、爆発やむなしと覚悟を決めながらも、間に合った時。いずれも相当レベルの高い快楽といえるが、腕を伸ばされた途端に吐き気は治まり、痛みが半減したこの時も類をみない気持ちよさだった。
教訓其の三 激痛は最大の快感なり
四度目は三十歳台前半、サッカーの試合でのこと。相手チームのDFと相当な勢いで衝突。この時、相手の肘が俺の脇腹を直撃した。それでも、ゲームはスコアレスドローになりそうだったため、プレーを続け、何とか得点することができた。試合終了後、病院に直行。肋骨が折れていた。腹部にギプスはできないため、コルセットを巻いてもらったが、うつ伏せ、仰向け…どのような姿勢で寝ても、肋骨がミシミシする。痛み自体はさほどでないものの、このミシミシ感は何とも不快だった。
教訓其の四 痛みを伴った骨太の改革
五度目の骨折は五年ほど前の氷結した歩道で起きた。三十歳台も半ばを過ぎ、体力低下を懸念した俺は、会社の帰り、氷の歩道を転ばずにどれだけ速く走れるかに挑戦した。当然、滑ってバランスを崩すわけだが、悪いことに肩にはパソコンを入れたバッグを背負っていた。
つるっと滑った瞬間、高価なパソコンを守ることを優先した俺は、左手首から転倒。また高校時代と同じ箇所をやってしまった。この時も痛さはそれほどなかったが、左手首が曲げられず、医者からは「このままではコンビニに行ってもお釣りを受け取れないよ」と言われ、長期間のリハビリを要した。
教訓其の五 体力に釣り合わぬは不幸の基
そして六度目は今年の7月初旬。階段で転び、全体重を乗せた左腕がコンクリートに直撃。病院でレントゲンを撮ったが、打撲と診断された。「湿布を貼り続けていれば治る」と高を括っていた。
ところが昨日、俺の左肘を見た同僚が不自然に「飛び出している」ことを発見。再び病院に行くと、左腕の檮骨が折れていると診断され、リハビリ治療を告げられた。
「先生、転んでから一カ月以上、経っていますが、リハビリをするには遅すぎないですか」
「いや、骨も治っているし、リハビリはいまがちょうどいい」というわけで、完全には伸びない左肘をリハビリで治すことになった。
長々と俺の骨折体験を披瀝したわけだが、振り返れば、小、中、高、三十歳代、四十歳代と着実に骨折歴を積み重ねてきた俺の人生には、二十歳代での骨折経験が欠落していた。骨が折れて然るべき、若年時代に骨折できなかったことは悔いが残る。
昨日、病院での診療が終わり、地下鉄大通駅のコンコースを歩いていた時のことだ。時刻は午後6時30分頃。前から白杖を持ち、小さな子どもと手をつないだ視覚障害者が歩いて来た。
息子は背格好からして三歳だろう。父親と手をつないで、楽しそうな顔で歩いている。三歳の子どもに目の見えない父親と二人だけで歩かせることは、母親も含めて家族がよほど固い絆で結ばれていなければ、できないはずだ。俺はこの親子とすれ違った後、申し訳ないと思いながらも、何度も振り返ってその姿を見た。
延々と続く、地下鉄のコンコースを歩く親子の姿は次第に小さくなっていったが、その未来は長きコンコースのごとく拓けているようだった。 










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