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「帝国」の暴走、「属国」の従順 第2回


 
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| アメリカと敵対するアフマディネジャド大統領(イラン・イスラム共和国大統領HPから) |
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CIAが暗躍したイランのパフラヴィー王政。
いずれの国でも、他国を攻撃する際には、相手国の非道や脅威と自国の「正義」や「国益」をかざし、事前に「非は相手国にある」ことを広く知らしめる。そうしたプロパガンダに成功すれば、「侵略戦争」のイメージは払拭され、多くの国民は先制攻撃の正当性を支持する。
こうした外国政策のスタンスは、ブッシュ政権発足後のアメリカにこそ当てはまるだろう。2002年、ブッシュ大統領は一般教書演説でイラク、北朝鮮、イランの3カ国を「悪の枢軸」と名指しし、政権転覆を示唆する発言もした。
それでも、アメリカとイラクやイランがはじめから敵対関係にあったわけではない。
フォード、ブッシュ両政権で国防長官を務めたラムズフェルド氏は、レーガン政権下の1983年12月、イラクのフセイン大統領との関係を強化する目的から特使としてバグダッド(下記URL参照)を訪れた。80年に勃発したイラン・イラク戦争(88年、国連安保理決議を受け入れ停戦)さなかのことだった。
アメリカとイラクの蜜月は湾岸戦争直前まで続いた。
アメリカは、79年にイスラム革命を成功させたイランが中東で勢力を拡大させることを懸念し、イラン・イラク戦争でフセイン政権を支援した。世俗的なイラクは、その際の橋頭堡になるとの思惑があった。
ところがイランとアメリカの関係も、はじめから敵対していたわけではない。
イランのカージャール朝は、21年、陸軍将校レザー・ハーンのクーデターによって倒され、レザー・ハーンは25年にレザー・シャー・パフラヴィーを名乗り、パーレビ朝を創設、王位に就いた。
レザー・シャー・パフラヴィーは第2次世界大戦中、枢軸国であるドイツ寄りのスタンスに立っていた。アドルフ・ヒトラーが、ソ連南部の資源を求めて進軍させた。一方、イランのアバダーンに製油所建設を目論むイギリスとソ連が1941年、イランに侵攻したため、レザー・シャー・パフラヴィーは強制的に王位を息子のモハンマド・レザー・パフラヴィーに譲らされた。
新米西洋化路線を推進したパフラヴィー国王は、50年6月、首相にアリ・ラズマラ将軍を任命したが、石油産業の国有化を拒んだため翌年3月、暗殺された。続いて51年4月、首相に就いたモハンマド・モサッデクは、石油産業の国営化を進めて国民の支持を得た。
国王と首相の対立は激化、モサッデク首相が下院を解散させた対抗措置として、パフラヴィー国王は、53年8月に首相を解任した。だが、モサッデク首相は解任を拒否、暴動が起きたため、パフラヴィー国王はローマに逃れた。
アメリカの援助を受け、復権を果たしたパフラヴィー国王は、CIAやイスラエルの協力を得て、57年に秘密警察SAVAK(情報安全保障国家機構)を立ち上げ、反体制の人物を粛清した。
しかし、イランではパフラヴィー王政が国民の不興を買い、全土に反王政デモが拡大、パフラヴィー国王は79年1月に退位、エジプトへの亡命を余儀なくされた。
翌2月に亡命先のフランスから帰国したシーア派最高指導者のホメイニ師は、イスラム革命によるイラン・イスラム共和国の樹立を宣言。それでも学生らの不満は納まらず、パーレビ元国王の引き渡しを要求、11月に在テヘランアメリカ大使館に乱入、大使館職員ら52人を人質(解放は81年1月)に占拠(テヘラン米大使館人質事件)した。
当時、アメリカではジミー・カーター大統領が2期目を目指していた。再選を果たすには、早期の人質解放が不可欠でだった。人質の解放が長引くほど、大統領選を争う共和党のドナルド・レーガン氏に有利と見られていた。
実際に人質が解放されるまでに要した期間は444日。レーガン氏の大統領就任式が行われた81年1月20日のことだった。そのため、人質の解放が意図的に遅らされたとの疑念は、いまだに払拭されていない。
いずれにしても、イランとアメリカの関係は、この事件を機に現在まで一触即発の状態が続いており、アメリカの政権転覆工作は広く知られている。(つづく)







関連サイト

レーガン政権下の1983年12月20日、中東特使としてバグダッドを訪れ、フセイン大統領と会談したラムズフェルト元国防長官(動画あり)
http://www2.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB82/

シリーズ一括読み
http://www.bnn-s.com/news/series_cd147.html






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