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「帝国」の暴走、「属国」の従順 第5回


 
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| 一時は死亡説も流れたが…(FBIホームページから) |
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case of Usama Bin Laden.
第4回までは、アメリカがかつてのイラン王政やイラクのフセイン政権の後ろ盾となって暗躍してきたにもかかわらず、その後は掌を返して軍事攻撃や政権転覆を目論んできたことを記した。
周知のようにアメリカは、タリバン政権に対して9・11同時多発テロの首謀者と断定したアルカーイダの指導者ウサマ・ビンラディンの引き渡しを求めたが、実現には至らず、アフガニスタンを攻撃した。
地政学上の要諦であるアフガニスタンは、これまでさまざまな国の思惑や内政の混乱から内戦状態を強いられた。
19世紀に勃発したイギリスとの2度にわたる戦争で敗れたアフガニスタンは、1880年、イギリスの保護領となった。1919年の独立後も、王政から共和制への移行や軍事クーデターによる人民民主党のアミン政権誕生など、不安定な状態が続いた。
伝統や慣習を軽視したアミン政権下では、イスラム復興主義運動が起こり、各地で反乱が生じた。ソ連はその間隙をつき、79年12月、アフガニスタンに軍事侵攻した。ソ連は共産主義者であるバーブラーク・カールマル革命評議会議長を傀儡とするカールマル政権を樹立させたが、イスラム諸国や西側諸国から非難を浴びるはめとなり、80年に行われたモスクワオリンピックのボイコットにつながった。
同時にアフガニスタン全土では反ソ連、反政府運動が起こり、聖戦士(ムジャヒディーン)を名乗るゲリラの武装闘争も始まった。この時、義勇兵としてゲリラに加わったのが、サウジアラビアから来たウサマ・ビンラディンだった。
ソ連という共通の敵が存在したビンラディンとCIAは、ソ連の侵攻時代、互いに情報を交換していたことが、パキスタン政府などによって確認されている。
一方、アフガニスタンの隣国であり、インドとカシミール地方の帰属問題を巡って牽制しあうパキスタンは、アフガニスタンに親パキスタン政権をつくることを目的にマドラサ(神学校)でタリバンを支援した。ソ連と冷戦状態にあったアメリカも、パキスタンを通じてアフガニスタンに武器を提供した。
結局、10年を費やしてもアフガニスタンを制圧できなかったソ連は、89年2月までに10万人の兵士を撤退させた。
ソ連軍の撤退後、サウジアラビアに帰国したビンラディンは、91年の湾岸戦争の際、米軍機がイスラム教の聖地がある母国から飛び立つことを理由に激しく政府を非難、国外退去処分(後に国籍剥奪)を科せられた。
スーダンに亡命したビンラディンは、96年に再びアフガニスタンに潜伏したとされているが、現在の消息は定かでない。
FBI(米連邦捜査局)は、ビンラディンが98年8月7日、タンザニアのダルエスサラーム、ケニアのナイロビで起きた米大使館爆破事件のほか、世界各地で発生したテロ攻撃の容疑者として指名手配している。
しかし、アルカーイダはソ連をアフガニスタンから撤退させるために、CIAが育て上げた組織だとする疑念はいまだに払拭されていない。
アメリカと敵対関係にあるとされるビンラディンとCIAの関係も、真偽のほどは不明である。
01年11月、フランスの「ル・フィガロ」(Le Figaro)紙は、CAI関係者とビンラディンがUAEのドバイにある「アメリカン病院」で面会したとする記事「CIA AGENT ALLEGEDLY MET BIN LADEN IN JULY」を載せた。
概略は次のような内容だ。「主治医や看護婦、護衛などを伴ったビンラディンは、パキスタンのクエッタ空港からドバイに入り、腎臓病の治療のため、01年7月4日から14日までの期間、アメリカン病院に入院した。ビンラディンは、00年からアフガニスタンの潜伏先に透析設備を用意させるほどの状態であり、入院中はサウジアラビアの高官のほか、CAI関係者が面会に訪れた」
この面会が事実であるとすれば、ビンラディンはなぜ逮捕されなかったのか。その理由が明らかになることは今後もなさそうである。(つづく)







関連サイト

Wanted by the FBI
http://www.fbi.gov/wanted.htm

シリーズ一括読み
http://www.bnn-s.com/news/series_cd147.html






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